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第一話 問題

 それはつい先日のこと。
 私は、情けのないことに寝ぼけてベッドから降りようとして、右足を捻挫した。
すぐに治るだろうと高をくくっていたが、これが一向に良くならない。
 幸いなことに職場の上司や同僚には理解があり、治るまでの間、しばらく療養をすることになったのだが、数日経っても捻挫の痛みは治まるどころか悪化していく一方だ。

 トイレに行くのですら、一苦労。
 そんなことを長い付き合いの友人・菜野子に話すと、彼女は評判のいい整骨院が、私の家の近くにあることを教えてくれた。
 スマホで検索をすると、その整骨院のホームページはトップに表示され、ネット予約を済ますことが出来た。
 私は、ふう、と一息つく。便利な世の中になったものだ。

 予約当日、本来であれば菜野子が車で送り迎えをしてくれる予定だったが、外せない仕事が彼女に入ってしまい私はタクシーを呼んで、その整骨院へ行くことにした。

「えっと…暮石整骨院、ここ…だよね」

 スマホに表示されている外観の写真と、目の前の整骨院を見比べる。うん、間違いなさそうだ。
 控えめにノックをしてドアを開けると、私はおずおずと中に入った。とりあえず、待合室で待っていればいいのだろうか。こういった場に来るのは初めてだから、よくわからない。
 明るく、広く、そして綺麗な空気の院内の印象は良い。カチコチと時計の針が動く音だけが響く。
 しばらくすると、待合室の前で仕切られていたカーテンがサッと引かれた。

「ああ、いらしてましたか。えーっと、初診の方ですよね。こちらにご記入頂いて、少々お待ちください」

 奥から、爽やかな笑顔をのぞかせた人物を見て、私は固まってしまった。

「……」
「…? 苗字さん?」
「あ…い、いや…その。暮石、光世先生…ですか?」
「はあ、そうですけど」

 確かに、目の前に立つ筋骨隆々の先生の胸元には「暮石光世」と名札がついている。
 そして、スマホで確認をした時に、この治療院は暮石先生が一人で経営していると書いていた。
 つう、と私の背中を冷たい汗が伝う。真夏だと言うのに、寒気すら感じた。

「あっ! もしかして、起きてるのもお辛い状態で? 奥で休んでお待ちになられますか?」
「いえ…」

 暮石先生は、一瞬怪訝そうに私を見た後、問診票を私に渡してカーテンの奥に姿を消した。
 どうやらカーテンの向こうには患者がいたらしく、なにやら様子を尋ねたり、世間話をしている。
 我に返った私は、とりあえず目の前の”問題”を後回しにして、問診票の記入を済ませた。
 やっぱり帰ろうか、なんて考えが頭をよぎる。しかし、捻挫の痛みも限界が近い。
 一度の治療でどれほど回復するのか、私にはわからない。一回で良くなれば良いのだけれど。
 そんなことを考えていると、前の患者が治療院を後にし、私は名前を呼ばれた。

苗字さん、どうぞ」
「は、は、はい」

 ひょこひょこと歩く私に気付いた先生は、手をかそうとしたのだろう、私に向けて手を伸ばした。
 私はブンブンと首を横に振って、なんとか診察台の上に座る。

「えーっと、何々…右足の捻挫ですか。捻挫されたのはいつ頃で?」
「一週間は経ってないです、四、五日前かと…」
「なるほど。少し触りますね」

 診察台からおろした私の右足に、暮石先生はそっと触れる。
 途端に激痛が走り、私は息を呑みながらギュッと目を瞑った。

「っつ…」
「こりゃ酷い捻挫だ。どうしてこんなになるまで放置したんですか」
「は、はあ…。すみません。ところで」
「はい?」
「暮石光世という先生は…その、あなたで?」
「はい。そうッス」

 暮石先生はニカッと笑うと、胸元の名札を指さした。
 確認するまでもなかったが、やっぱり暮石整骨院の院長は彼らしい。

「そうですか…」
「…? では、少し痛いと思います。我慢できない痛みであれば仰って下さい」

 暮石先生は私の右足にそっと手を添え、少しずつ角度を変えながら、所々を指で押していく。
 時折強く痛んだが、捻挫の痛みそのものよりは我慢ができる。
 私の心臓はばくんばくんと脈打ち、うっすらと額が汗ばむ。勿論、目の前の暮石先生にときめいているなんてことはなく、むしろ、その逆だ。

「大丈夫…ですか? あまり痛むようなら無理はなさらないで下さい」
「あはは…大丈夫、です」

 カチ、コチと時計の音だけが治療院に響く。
 暮石先生は治療に集中しているのか、時折、ああ…とかなるほど…と独り言を呟いていた。

「すぐに処置しなかったので、これは治療に少し時間がかかりますよ」

 思わず腹の底からため息を吐いた私に、暮石先生は苦笑いを浮かべながら言う。

「大丈夫。少し通って貰えたら、ちゃんと治りますから。テーピングしておきますので安静第一でお願いします」
「…すみません、お願いします…」

 暮石先生は私の足にぐるぐるとテープを巻きながら、少し笑いを堪えるように私に尋ねた。

「治療院の雰囲気、苦手っすか?」
「まあ、そんなところです」
「結構そういう人多いんですよ。難しいかもしれませんけど、リラックスして下さい。はい、リラックス!」

 そう言って暮石先生は、またニカッと笑った。
 治療費はホームページに載っていた通り、良心的な価格。これなら通えそう、とはいえ”問題”をどうクリアするかが難しい。
 支払いの際に、指が触れそうになったため、私は慌てて手を引っ込めた。はらり、と千円札が落ちる。

「あ…」
「大丈夫っすよ」

 暮石先生と次の予約の相談をすると、先生は予約表に私の名前を書き記した。
 その姿を見ながら、私はそそくさと靴を履き治療院の外に出る。
 外はすっかり日が暮れていて、薄暗い。とはいえ、街灯はあるし、辺りは十分に明るい。テーピングのおかげか、足の痛みも少しはマシなように感じる。

「っはぁ…緊張したー! さ…帰ろう」

 一歩を前に踏み出した瞬間、背後から突然声をかけられた。

苗字さん!!」
「っひゃあ?!!」

 声は暮石先生のもの。背後から声をかけられた事に驚いた私は、右足を出し損ない、前のめりに倒れ込む。こんな時、咄嗟に腕が出ればと思った。このままでは地面とキスをしてしまう。キスで済めば良い方だ、額から流血かもしれない。
 衝撃に備えて、私はギュッと目を瞑った。

「…あれ?」
「大丈夫ですか?」

 待っていたのは地面にぶつかる衝撃ではなく、なんだか暖かくて硬い、だけど柔らかな不思議な感触のものだった。
 恐る恐る目を開けると、目の前に暮石先生の顔があり、私は思わずきゃあと悲鳴を上げる。
 暮石先生の腕の中に、私はいた。咄嗟に出てしまった右手が、暮石先生の頬を叩く。

「えっ、俺、叩かれるんすか?!」

 暮石先生は困ったように笑うと、ゆっくりと私を解放した。

「ご、ごめんなさい。びっくりして、つい」
「いえいえ。患者さんの中には、痛みのあまり叩いたり噛みついてくる人もいますから。大丈夫ですよ。まあ…倒れそうなのを支えて叩かれたのははじめてですけどね」
「…すみません」
「一人で帰れますか? 送って差し上げたいっすけど…まだこの後、患者さんがいて」
「大丈夫です! 少し歩けばタクシー乗り場があるので」
「タクシー乗り場まで、肩、貸しましょうか? それくらいの時間ならありますよ」
「大丈夫、です!それでは!」

 踵を返してタクシー乗り場へ向かおうとした私を、再度暮石先生が呼び止める。

「っと、苗字さん。お釣り、お忘れですよ」
「あ…どうも。それでは」

 暮石先生はお大事にと手を振って私を見送った。
 今度こそ一歩ずつ、しっかりと歩みを進めてタクシー乗り場へ急ぐ。幸運にもタクシー乗り場では、何台かのタクシーが客待ちをしており、私は待ち時間ゼロでタクシーに乗ることが出来た。
 運転手に行き先を告げると、話しかけられないよう、バッグからイヤホンを出し音楽を聞いて、終始スマホを触っていた。

 家に帰り、シャワーを浴び終えた私は、頭をガシガシとタオルで拭きながら、テレビを付けた。テーピングは全く剥がれておらず、水分を吸ったことによる不快感が少しある程度だ。
 テレビでは、ちょうどこの辺りの週間天気予報が放映されていた。

 ピコン、とスマホがメールの着信を告げる。だけど、この音は滅多に聞かないショートメッセージだ。たまに来る、迷惑メールだろうか? 面倒だが一応確認はしておきたい。
 私はスマホのロックを解除し、ショートメッセージのアプリを立ち上げた。

『暮石です。苗字名前さんの番号であっていますか? 突然のメッセージ、すみません。鏡、お忘れじゃないですか?』

 暮石という文字に悪い意味でどきりとしたが、慌ててバッグの中を見た。

「まずった…」

 多分、待合室でメイクのチェックをしている時にバッグから出して、椅子の上においてしまったのだろう。
 旅先で見つけて、一目惚れしたレトロなデザインの鏡。それが、バッグの定位置にいない。十中八九、暮石先生が言っている「鏡」は私のものだ。

苗字です。ご連絡ありがとうございます。多分、私の鏡だと思います。次の診察まで預かっていただけないでしょうか?』

 返信を送ると、スマホを置いてドライヤーを持った。すぐに、ピコンとショートメッセージの着信音が鳴る。

『わかりました。それではお預かりします。次の診察の際に忘れずお渡ししますね』
『お願いします。今日はありがとうございました。おやすみなさい』

 そのメールを最後に、スマホは沈黙した。
 私はドライヤーで髪を乾かすことも忘れ、はぁぁと息を吐いて目を瞑る。

 翌朝、私は騒々しいアラームの音で目を覚ました。
 本当はリラックスするような綺麗なBGMをアラーム音に設定したいのだけど、それでは二度寝してしまうため、仕方なくこの騒がしいアラーム音にしている。
 会社は休んでいるため、早起きする必要はないけれど、いつでも会社に復帰できるよう、朝早く起きることだけは欠かしていない。

 食パンをトースターに入れて、お湯を沸かしコーヒーを淹れる。
 トーストには、せめてもの抵抗で選んだカロリーオフのバターをたっぷりと塗り、寝ぼけ眼で齧りついた。
 ふいに、メッセージアプリの音がなり、手元に置いていたスマホの通知を見ると、友人の菜野子だった。暮石治療院を紹介してくれた、例の子だ。

『おはよ、名前。今日って空いてる?』
『おはよ。私は足の件で休みだけど…菜野子は仕事でしょ? 仕事の後ってこと?』
『もう世間に置いてかれてるじゃん! 今日は祝日でお休み。いつものところでランチしない?』

 言われてカレンダーを見て気が付いた。たしかに今日は祝日のようだ。
 早起きの習慣は続けていても、カレンダーを見ることはすっかり忘れていた。

 菜野子とのメッセージ交換はテンポよく進み、今日の昼に彼女の運転する車でランチに行くことが決定した。
 テラス席が気持ちいい、お気に入りのカフェ。
 あまり聞かないけれど、チェーン店のようで、店員と店の雰囲気がよく、何より食事がリーズナブルで美味しいため、菜野子とはよく一緒にランチへ行っている。
 昼に家の前についたと連絡が入り、私は家を出て右足をかばいながら菜野子の車に乗り込んだ。

「思ってたより良さそうじゃん、具合」
「ああ、まあね。整骨院でテーピングして貰ったおかげかも」
「暮石整骨院だっけ。どうだった? 評判の良いところみたいだけど

「……男だった」
「ぶ」

 菜野子が他人事のように…いや、実際に他人事ではあるが、吹き出した。

「覚えてないけど、名前が女性っぽかったから女性の先生だと思ってたわ。ごめんごめん」
「確かに、光世って名前だし、私も女性だと思ってた。はあ、本当…足は楽になったけど心がもたないよ」
名前の男嫌いも酷いもんだね」
「嫌いなんじゃなくて、苦手なだけだって」
「似たようなもんじゃん。あ、タバコ吸っていい?」
「換気と安全運転をしてくれるなら」

 菜野子は、信号待ちの間に手慣れた手付きでタバコに火をつけ白煙を吐く。窓を開けているとはいえ車内が少し煙たくなった。
 カフェにつくと、馴染みの店員がテラス席に私達を案内してくれる。
 パスタとサラダとドリンクのセット。いつも私達が頼む定番のメニュー。
 オーダーを済ませると、私たちは最近の出来事についての話に花を咲かせた。もっとも、私は療養しているため、これといった話題はなく、会話の内容は殆どが菜野子の愚痴だ。
 次に出たのが、恋人の愚痴。彼氏が出来ない、という菜野子の愚痴の内容は、ここニ年変わっていない。

「プロフに鍛えてます! って書いてたんだよ? なのに実際会ってみたら、もう全ッ然!」
「あー…菜野子はムキムキ好きだもんね…」
「そんなの詐欺じゃない? もうさ、適当な理由つけて…」
「あれ? 苗字さん?」

 パスタを巻いていたフォークの手が止まる。聞き馴染みはないが、聞き覚えはある声。

「…暮石先生」
「奇遇っすね! 足の具合、どうですか?」

 暮石先生は片手を上げて、私の前の前に来るとその場でしゃがみ、私の右足に手を添える。
 テーピングのおかげか、あまり痛みはなかったが、暮石先生は難しそうな顔を浮かべた。

「今はテーピングで一時的に痛みを押さえてますけど…根本治療のためにも、しっかり通院してくださいね」
「あ、はは…そうですね」
「え、え? 暮石? 暮石先生ってことは、整骨院の先生ってこの人なの? 名前

 菜野子が食事の手を止め、キラキラとした瞳で私に問いかけた。
 下瞼に艶を足すメイクも合わさって、菜野子の瞳はうるうると潤んで見える。

「ども! 暮石接骨院の暮石光世っす! お見知りおきを~」
「えっ、うそでしょ。こんなイケメンだったの?! 名前なんで教えてくれなかったの!」

 菜野子は私を睨みつけた後、手ぐしで髪を整えて暮石先生を見た。

「えっと、暮石…光世先生? 私、名前の友達で菜野子っていいます」

 立ち話もなんなので。と、菜野子が暮石先生に座るよう促すと、暮石先生はごく自然に座った。すぐに従業員が水を運び、オーダーを取る。
 私はうつむきながらパスタを口に運び、菜野子と暮石先生の雑談を聞くことに徹する。
 治療院のこととか、格闘技がどうのこうのと聞こえていたけれど、私は特に格闘技には関心がない。

「さて、じゃあ行こう! 名前!」

 器用に喋りながら食べ終えた菜野子は、口元をペーパーナプキンで拭いながら立ち上がる。
 やっと話が終わったとばかりに、私も顔を上げて口元を拭う。

「行こうかってどこへ? 待ってて、今支払ってくるから。車出してくれたお礼ね」
「暮石さんが奢ってくれるって、甘えちゃお?」
「え、ええー…。それで、どこへ行くの?」
「暮石さんが経営する道場!」

 それを聞いた私は、やっとの事でたった一言を発するのが精一杯だった。

「…はっ?」

 

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