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第一話 問題

 それはつい先日のこと。
 私は、情けのないことに寝ぼけてベッドから降りようとして、右足を捻挫した。
すぐに治るだろうと高をくくっていたが、これが一向に良くならない。
 幸いなことに職場の上司や同僚には理解があり、治るまでの間、しばらく療養をすることになったのだが、数日経っても捻挫の痛みは治まるどころか悪化していく一方だ。

 トイレに行くのですら、一苦労。
 そんなことを長い付き合いの友人・菜野子に話すと、彼女は評判のいい整骨院が、私の家の近くにあることを教えてくれた。
 スマホで検索をすると、その整骨院のホームページはトップに表示され、ネット予約を済ますことが出来た。
 私は、ふう、と一息つく。便利な世の中になったものだ。

 予約当日、本来であれば菜野子が車で送り迎えをしてくれる予定だったが、外せない仕事が彼女に入ってしまい私はタクシーを呼んで、その整骨院へ行くことにした。

「えっと…暮石整骨院、ここ…だよね」

 スマホに表示されている外観の写真と、目の前の整骨院を見比べる。うん、間違いなさそうだ。
 控えめにノックをしてドアを開けると、私はおずおずと中に入った。とりあえず、待合室で待っていればいいのだろうか。こういった場に来るのは初めてだから、よくわからない。
 明るく、広く、そして綺麗な空気の院内の印象は良い。カチコチと時計の針が動く音だけが響く。
 しばらくすると、待合室の前で仕切られていたカーテンがサッと引かれた。

「ああ、いらしてましたか。えーっと、初診の方ですよね。こちらにご記入頂いて、少々お待ちください」

 奥から、爽やかな笑顔をのぞかせた人物を見て、私は固まってしまった。

「……」
「…? 苗字さん?」
「あ…い、いや…その。暮石、光世先生…ですか?」
「はあ、そうですけど」

 確かに、目の前に立つ筋骨隆々の先生の胸元には「暮石光世」と名札がついている。
 そして、スマホで確認をした時に、この治療院は暮石先生が一人で経営していると書いていた。
 つう、と私の背中を冷たい汗が伝う。真夏だと言うのに、寒気すら感じた。

「あっ! もしかして、起きてるのもお辛い状態で? 奥で休んでお待ちになられますか?」
「いえ…」

 暮石先生は、一瞬怪訝そうに私を見た後、問診票を私に渡してカーテンの奥に姿を消した。
 どうやらカーテンの向こうには患者がいたらしく、なにやら様子を尋ねたり、世間話をしている。
 我に返った私は、とりあえず目の前の”問題”を後回しにして、問診票の記入を済ませた。
 やっぱり帰ろうか、なんて考えが頭をよぎる。しかし、捻挫の痛みも限界が近い。
 一度の治療でどれほど回復するのか、私にはわからない。一回で良くなれば良いのだけれど。
 そんなことを考えていると、前の患者が治療院を後にし、私は名前を呼ばれた。

苗字さん、どうぞ」
「は、は、はい」

 ひょこひょこと歩く私に気付いた先生は、手をかそうとしたのだろう、私に向けて手を伸ばした。
 私はブンブンと首を横に振って、なんとか診察台の上に座る。

「えーっと、何々…右足の捻挫ですか。捻挫されたのはいつ頃で?」
「一週間は経ってないです、四、五日前かと…」
「なるほど。少し触りますね」

 診察台からおろした私の右足に、暮石先生はそっと触れる。
 途端に激痛が走り、私は息を呑みながらギュッと目を瞑った。

「っつ…」
「こりゃ酷い捻挫だ。どうしてこんなになるまで放置したんですか」
「は、はあ…。すみません。ところで」
「はい?」
「暮石光世という先生は…その、あなたで?」
「はい。そうッス」

 暮石先生はニカッと笑うと、胸元の名札を指さした。
 確認するまでもなかったが、やっぱり暮石整骨院の院長は彼らしい。

「そうですか…」
「…? では、少し痛いと思います。我慢できない痛みであれば仰って下さい」

 暮石先生は私の右足にそっと手を添え、少しずつ角度を変えながら、所々を指で押していく。
 時折強く痛んだが、捻挫の痛みそのものよりは我慢ができる。
 私の心臓はばくんばくんと脈打ち、うっすらと額が汗ばむ。勿論、目の前の暮石先生にときめいているなんてことはなく、むしろ、その逆だ。

「大丈夫…ですか? あまり痛むようなら無理はなさらないで下さい」
「あはは…大丈夫、です」

 カチ、コチと時計の音だけが治療院に響く。
 暮石先生は治療に集中しているのか、時折、ああ…とかなるほど…と独り言を呟いていた。

「すぐに処置しなかったので、これは治療に少し時間がかかりますよ」

 思わず腹の底からため息を吐いた私に、暮石先生は苦笑いを浮かべながら言う。

「大丈夫。少し通って貰えたら、ちゃんと治りますから。テーピングしておきますので安静第一でお願いします」
「…すみません、お願いします…」

 暮石先生は私の足にぐるぐるとテープを巻きながら、少し笑いを堪えるように私に尋ねた。

「治療院の雰囲気、苦手っすか?」
「まあ、そんなところです」
「結構そういう人多いんですよ。難しいかもしれませんけど、リラックスして下さい。はい、リラックス!」

 そう言って暮石先生は、またニカッと笑った。
 治療費はホームページに載っていた通り、良心的な価格。これなら通えそう、とはいえ”問題”をどうクリアするかが難しい。
 支払いの際に、指が触れそうになったため、私は慌てて手を引っ込めた。はらり、と千円札が落ちる。

「あ…」
「大丈夫っすよ」

 暮石先生と次の予約の相談をすると、先生は予約表に私の名前を書き記した。
 その姿を見ながら、私はそそくさと靴を履き治療院の外に出る。
 外はすっかり日が暮れていて、薄暗い。とはいえ、街灯はあるし、辺りは十分に明るい。テーピングのおかげか、足の痛みも少しはマシなように感じる。

「っはぁ…緊張したー! さ…帰ろう」

 一歩を前に踏み出した瞬間、背後から突然声をかけられた。

苗字さん!!」
「っひゃあ?!!」

 声は暮石先生のもの。背後から声をかけられた事に驚いた私は、右足を出し損ない、前のめりに倒れ込む。こんな時、咄嗟に腕が出ればと思った。このままでは地面とキスをしてしまう。キスで済めば良い方だ、額から流血かもしれない。
 衝撃に備えて、私はギュッと目を瞑った。

「…あれ?」
「大丈夫ですか?」

 待っていたのは地面にぶつかる衝撃ではなく、なんだか暖かくて硬い、だけど柔らかな不思議な感触のものだった。
 恐る恐る目を開けると、目の前に暮石先生の顔があり、私は思わずきゃあと悲鳴を上げる。
 暮石先生の腕の中に、私はいた。咄嗟に出てしまった右手が、暮石先生の頬を叩く。

「えっ、俺、叩かれるんすか?!」

 暮石先生は困ったように笑うと、ゆっくりと私を解放した。

「ご、ごめんなさい。びっくりして、つい」
「いえいえ。患者さんの中には、痛みのあまり叩いたり噛みついてくる人もいますから。大丈夫ですよ。まあ…倒れそうなのを支えて叩かれたのははじめてですけどね」
「…すみません」
「一人で帰れますか? 送って差し上げたいっすけど…まだこの後、患者さんがいて」
「大丈夫です! 少し歩けばタクシー乗り場があるので」
「タクシー乗り場まで、肩、貸しましょうか? それくらいの時間ならありますよ」
「大丈夫、です!それでは!」

 踵を返してタクシー乗り場へ向かおうとした私を、再度暮石先生が呼び止める。

「っと、苗字さん。お釣り、お忘れですよ」
「あ…どうも。それでは」

 暮石先生はお大事にと手を振って私を見送った。
 今度こそ一歩ずつ、しっかりと歩みを進めてタクシー乗り場へ急ぐ。幸運にもタクシー乗り場では、何台かのタクシーが客待ちをしており、私は待ち時間ゼロでタクシーに乗ることが出来た。
 運転手に行き先を告げると、話しかけられないよう、バッグからイヤホンを出し音楽を聞いて、終始スマホを触っていた。

 家に帰り、シャワーを浴び終えた私は、頭をガシガシとタオルで拭きながら、テレビを付けた。テーピングは全く剥がれておらず、水分を吸ったことによる不快感が少しある程度だ。
 テレビでは、ちょうどこの辺りの週間天気予報が放映されていた。

 ピコン、とスマホがメールの着信を告げる。だけど、この音は滅多に聞かないショートメッセージだ。たまに来る、迷惑メールだろうか? 面倒だが一応確認はしておきたい。
 私はスマホのロックを解除し、ショートメッセージのアプリを立ち上げた。

『暮石です。苗字名前さんの番号であっていますか? 突然のメッセージ、すみません。鏡、お忘れじゃないですか?』

 暮石という文字に悪い意味でどきりとしたが、慌ててバッグの中を見た。

「まずった…」

 多分、待合室でメイクのチェックをしている時にバッグから出して、椅子の上においてしまったのだろう。
 旅先で見つけて、一目惚れしたレトロなデザインの鏡。それが、バッグの定位置にいない。十中八九、暮石先生が言っている「鏡」は私のものだ。

苗字です。ご連絡ありがとうございます。多分、私の鏡だと思います。次の診察まで預かっていただけないでしょうか?』

 返信を送ると、スマホを置いてドライヤーを持った。すぐに、ピコンとショートメッセージの着信音が鳴る。

『わかりました。それではお預かりします。次の診察の際に忘れずお渡ししますね』
『お願いします。今日はありがとうございました。おやすみなさい』

 そのメールを最後に、スマホは沈黙した。
 私はドライヤーで髪を乾かすことも忘れ、はぁぁと息を吐いて目を瞑る。

 翌朝、私は騒々しいアラームの音で目を覚ました。
 本当はリラックスするような綺麗なBGMをアラーム音に設定したいのだけど、それでは二度寝してしまうため、仕方なくこの騒がしいアラーム音にしている。
 会社は休んでいるため、早起きする必要はないけれど、いつでも会社に復帰できるよう、朝早く起きることだけは欠かしていない。

 食パンをトースターに入れて、お湯を沸かしコーヒーを淹れる。
 トーストには、せめてもの抵抗で選んだカロリーオフのバターをたっぷりと塗り、寝ぼけ眼で齧りついた。
 ふいに、メッセージアプリの音がなり、手元に置いていたスマホの通知を見ると、友人の菜野子だった。暮石治療院を紹介してくれた、例の子だ。

『おはよ、名前。今日って空いてる?』
『おはよ。私は足の件で休みだけど…菜野子は仕事でしょ? 仕事の後ってこと?』
『もう世間に置いてかれてるじゃん! 今日は祝日でお休み。いつものところでランチしない?』

 言われてカレンダーを見て気が付いた。たしかに今日は祝日のようだ。
 早起きの習慣は続けていても、カレンダーを見ることはすっかり忘れていた。

 菜野子とのメッセージ交換はテンポよく進み、今日の昼に彼女の運転する車でランチに行くことが決定した。
 テラス席が気持ちいい、お気に入りのカフェ。
 あまり聞かないけれど、チェーン店のようで、店員と店の雰囲気がよく、何より食事がリーズナブルで美味しいため、菜野子とはよく一緒にランチへ行っている。
 昼に家の前についたと連絡が入り、私は家を出て右足をかばいながら菜野子の車に乗り込んだ。

「思ってたより良さそうじゃん、具合」
「ああ、まあね。整骨院でテーピングして貰ったおかげかも」
「暮石整骨院だっけ。どうだった? 評判の良いところみたいだけど

「……男だった」
「ぶ」

 菜野子が他人事のように…いや、実際に他人事ではあるが、吹き出した。

「覚えてないけど、名前が女性っぽかったから女性の先生だと思ってたわ。ごめんごめん」
「確かに、光世って名前だし、私も女性だと思ってた。はあ、本当…足は楽になったけど心がもたないよ」
名前の男嫌いも酷いもんだね」
「嫌いなんじゃなくて、苦手なだけだって」
「似たようなもんじゃん。あ、タバコ吸っていい?」
「換気と安全運転をしてくれるなら」

 菜野子は、信号待ちの間に手慣れた手付きでタバコに火をつけ白煙を吐く。窓を開けているとはいえ車内が少し煙たくなった。
 カフェにつくと、馴染みの店員がテラス席に私達を案内してくれる。
 パスタとサラダとドリンクのセット。いつも私達が頼む定番のメニュー。
 オーダーを済ませると、私たちは最近の出来事についての話に花を咲かせた。もっとも、私は療養しているため、これといった話題はなく、会話の内容は殆どが菜野子の愚痴だ。
 次に出たのが、恋人の愚痴。彼氏が出来ない、という菜野子の愚痴の内容は、ここニ年変わっていない。

「プロフに鍛えてます! って書いてたんだよ? なのに実際会ってみたら、もう全ッ然!」
「あー…菜野子はムキムキ好きだもんね…」
「そんなの詐欺じゃない? もうさ、適当な理由つけて…」
「あれ? 苗字さん?」

 パスタを巻いていたフォークの手が止まる。聞き馴染みはないが、聞き覚えはある声。

「…暮石先生」
「奇遇っすね! 足の具合、どうですか?」

 暮石先生は片手を上げて、私の前の前に来るとその場でしゃがみ、私の右足に手を添える。
 テーピングのおかげか、あまり痛みはなかったが、暮石先生は難しそうな顔を浮かべた。

「今はテーピングで一時的に痛みを押さえてますけど…根本治療のためにも、しっかり通院してくださいね」
「あ、はは…そうですね」
「え、え? 暮石? 暮石先生ってことは、整骨院の先生ってこの人なの? 名前

 菜野子が食事の手を止め、キラキラとした瞳で私に問いかけた。
 下瞼に艶を足すメイクも合わさって、菜野子の瞳はうるうると潤んで見える。

「ども! 暮石接骨院の暮石光世っす! お見知りおきを~」
「えっ、うそでしょ。こんなイケメンだったの?! 名前なんで教えてくれなかったの!」

 菜野子は私を睨みつけた後、手ぐしで髪を整えて暮石先生を見た。

「えっと、暮石…光世先生? 私、名前の友達で菜野子っていいます」

 立ち話もなんなので。と、菜野子が暮石先生に座るよう促すと、暮石先生はごく自然に座った。すぐに従業員が水を運び、オーダーを取る。
 私はうつむきながらパスタを口に運び、菜野子と暮石先生の雑談を聞くことに徹する。
 治療院のこととか、格闘技がどうのこうのと聞こえていたけれど、私は特に格闘技には関心がない。

「さて、じゃあ行こう! 名前!」

 器用に喋りながら食べ終えた菜野子は、口元をペーパーナプキンで拭いながら立ち上がる。
 やっと話が終わったとばかりに、私も顔を上げて口元を拭う。

「行こうかってどこへ? 待ってて、今支払ってくるから。車出してくれたお礼ね」
「暮石さんが奢ってくれるって、甘えちゃお?」
「え、ええー…。それで、どこへ行くの?」
「暮石さんが経営する道場!」

 それを聞いた私は、やっとの事でたった一言を発するのが精一杯だった。

「…はっ?」

 

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「愛を誓う言葉を君に」(暮石光世)

「…名前…?」
「えっ、くれい、し…さん?」
「やっぱり名前だ! 元気だった?」

 名前と光世は思わぬ場所で再会を果たした。
 場所は拳願絶命トーナメントが行われる願流島だ。トーナメント前夜である今、会場はすでに集まった拳願会員と闘技者で盛り上がっている。
 名前がここにいるということは、光世にとって全く予想だにしていないことだった。
 そもそも顔を見るのも数年ぶり。言葉を交わしたのも数年ぶり。
 かつては共に過ごし、時に笑い、時にふざけ合い、愛し合った仲。二人は恋人「だった」。

「えっと…はい、元気です」
「よかった。あのさ!」

 一歩、光世が名前に向かって足を踏み出すと、名前はじりっと後退する。また一歩近づいても、彼女は後ろに下がっていく。
 完璧なる「拒絶」の意思を示す名前に、光世はがっくりと項垂れた。

「そんなあからさまに避けなくても」
「い、いえ…避けてるわけじゃなくて。これからお仕事で…お客様を待たせてて」
「お客さん?」

 久しぶりに見る名前の愛らしい表情や、伸びた髪の毛に気を取られていたが、よく見てみると名前は白衣を着ている。
 光世にとっても馴染みのあるそれは、医者のものではなく、整体師や整骨師のものに近い。真っ白は白衣は、純粋で真っ直ぐな名前によく似合っていた。

「元気そうで何より。あれから何してた?」
「んっと…仕事、頑張ってたかな…」

 何の仕事なのかと問おうとしたが、名前はペコリと頭を下げるとその場を走り去ってしまった。
 小さくなる後ろ姿を見ながら、光世は淋しげに目を伏せる。

(やっぱり…、俺の側にはいてくれないんスね…)

「師匠~!」

 ふいに背後から明るい声で「師匠」と呼ばれ振り向く。そこには愛弟子のコスモが大きな骨付き肉を片手に手を振っていた。

「これ食べてさ、ギリギリまでトレーニングしたい…って、どうしたの? なんか元気ないね」

 コスモは肉にかぶりつきながら、しかし心配そうな表情をして光世の顔を覗き込む。

「昔の彼女がいたからびっくりしてただけー。コスモはそんなこと気にしなくていいの」
「昔の彼女…、ああ! 名前さん…、だっけ」
「そ」
「興味あるなー、師匠がそこまで好きになる女性のこと。トレーニングしながら聞かせてよ!」

 トーナメントに向けては、多くの闘技者がギリギリまで調整を行っている。コスモもその例には漏れない。名前の事を話すかどうかはともかく、光世はトレーニングのために場所を移し、コスモと共にスパーリングを行った。
 トーナメントに支障が出ない程度のスパーリングを行った後、冷えた水をコスモに渡すと、コスモは興味津々といった様子で再度同じ質問をした。

「ねえ、師匠。名前さんってどんな人?」
「ん~、そうだなぁ…」

 光世はかつて恋人だった名前の事を思い出す。
 彼女は甘えん坊で、ちょっと泣き虫な女性だった。人とコミュニケーションを取るのが苦手で、人間関係が上手く築けず職を転々とし、今回もダメだったと泣いては、光世に撫でられてその胸で眠っていた。
 翌朝になると、泣きはらした目を恥ずかしそうに擦りながら「もう一度頑張ってみる」と笑う。
 そんな健気で一生懸命なところが好きだった。

名前は女の子なんだしさ、俺と結婚しちゃえばいいのに』

 半分冗談、半分本気で、そんな言葉を名前に伝えたことがある。
 まだ互いに若かったが、真剣な交際をしているつもりだったし、将来の事も考えていた。いつかは言おうと思っていた言葉。それが、少し早まっただけだった。
 名前はうーんと数秒考えてから「一度くらいはちゃんと仕事を続けてから…」と、光世なりに勇気を出したプロポーズを保留にしたのだ。
 それから、なんとなく連絡をとる頻度が低くなり、やがてプツリと連絡が途絶えた。

「…ってことで、ああ、お別れなんだなと。さっきも逃げるように走っていったし」
「へえ。でも名前さんだって師匠と会えて嬉しかったんじゃない? 仕事があったから行っただけでしょ」
「ないない。絶対ない」
「なんでさ、師匠らしくないよ。さよならって言われたわけでもないんだし」

 よくよく過去を思い出す。確かに、さよならというメールが来たわけでも、電話が来たわけでもない。でもきっと名前の性格上言えなかったのだろう、と光世は考えていた。
 いっそ「さよなら」と言われていれば、きっぱりと諦めることも出来るのに…そこまで考えて、まだ彼女を作ったことのないコスモからのアドバイスが生意気な気がした。

「これは大人の話だから。はい、名前の話終了!」
「えー!」

 ぶーと頬を膨らませたコスモの頬を指でつついた後、トレーニング終了を告げて、気を紛らわせるために酒を買い込んで部屋に戻った。

・・
・・・

「はあ…」

 仕事を終えた名前は、Tシャツにショートパンツというラフな格好で海が見える木の下に座っていた。
 もう時間も遅く、明日は皆が待ちかねているトーナメント初日だ。人もいないだろうと踏んで来たが、周りにはカップルが多く、到着して数分が経っただけだがここに来たことを後悔していた。
 夜の海は怖いが、ここの海はライトアップされており十分に明るい。
 水着を来て浅瀬ではしゃぐカップルを見ながら、思わぬ再会を果たした光世のことを考える。

(もっと話しがしたかったのに…暮石さんに、今の私をしっかり見てもらいたかったのに…。私のバカ)

 思わぬ再会と考えるのは少々語弊がある。
 元々光世が何か裏と繋がりがあることに、名前は薄々勘付いていた。そのため、むしろ思わぬ再会だと感じたのは、裏世界とは無縁に生きてきた名前とトーナメントで再会した光世だろう。

 泣いてばかりで、職を転々としていたあの頃とは違う。
 今となってはしっかりとした社会人になった自分を、名前は光世に見てもらいたかったのだ。…たとえ、今はもう、光世の側にいるのが名前ではないとしても。
 そして連絡が途絶えたということは、関係も途絶えたということ。「今なら自信を持ってあなたの側にいられる」などと言えるはずもない。

・・
・・・

 トーナメント中日。
 施術が終わった名前は、再びラフなTシャツとショートパンツに着替え、海辺に来ていた。
 先日カップルだらけで辟易したというのに、ここへ来てしまうのは何故だろうか、と自問自答する。幸せなカップルを見ていると、それに光世と自分の姿を重ねる事ができるからだろうか。

「ふう…」

 冷たい風が心地良い。仕事内容には慣れてきたが、客との会話は未だに慣れない。
 名前は現在、整体師として働いている。整骨院で働く光世とは少し違うが、彼からの影響はかなり大きい。
 女性に向けた、顔の歪みを治す施術を得意としており、それに特化した店で働いている。女性の拳願会員も案外と多いため、彼女たちには非常にウケが良かった。仕事にはやりがいを感じているし、これからも頑張っていきたいと思っているため、勉強を欠かしたことはない。
 しかし、今ばかりは光世のことで頭がいっぱいだった。会いたい、声が聞きたい、と彼のことばかりを考えてしまう。

 いつでも強く、優しく、泣き虫な自分を抱きしめてくれた。きっと今は新しい彼女がいるのだろう。そう考えると胸が締め付けられた。

「…暮石さん…」
「はいはい、何スか?」

 予想もしていなかった光世の声と共に、頬にひやりと冷たいものが触れ、名前は小さく肩を震わせた。驚き振り向くと、そこには名前の目線まで腰を落としてニカッと笑う光世の姿があり、名前はぱくぱくと口を動かす。

「な、なん…」

 あまりの驚きに言葉が出てこなかった。

「俺のこと、呼んだでしょ? はい、これ」

 変わらぬ笑顔の光世が名前に差し出したのは、ちょっとマイナーなメーカーの紅茶だ。かなり甘みの強い紅茶で、飲む人を選ぶものだが名前の大好物だった。

「俺の記憶では…─、名前は紅茶ならこのメーカーが一番好き。でしょ? まさかここにあるとは思ってなかったスけど」

 おずおずと受け取った名前は、目で「飲んでもいいの?」と問いかける。光世が頷くと、キャップを開けて一口飲み込んだ。あの砂糖がたっぷり入った、ちょっと体に悪そうな甘みが口いっぱいに広がる。

「…覚えてて、くれたんだ」
「忘れるわけないし? 名前、これ。夜は冷えるから羽織って」

 光世はそう言うと、自らが羽織っていたパーカーをそっと名前の肩にかけた。ふわっと光世の香りとぬくもりを感じると、名前は懐かしさと心地よさに目を細める。
 隣でプシュッと音がして視線を向けると、光世が自分用に買ってきた飲み物を開けたようだ。握られたペットボトルのパッケージには「癖になる旨さ! カレースパークリング!」と書かれている。一体どんな味がするのだろうか、と名前は光世がそれに口をつける様子をじっと見た。

「…何これマッズ! 商品としてアリなのこれ?! カレーへの冒涜ッス…」

 名前には想像もつかないが、多分癖にはならない味なのだということは理解できた。

「ふふ…暮石さん、変わらないね」
「…名前は変わった。前より自信のある表情だし、元から可愛いのにもっと、うんと可愛くなった。今の彼氏にだけ見せる顔があるのかと思うと、妬けるなー」

 光世はカレースパークリング飲料を隣に起き、キャップを締めながら、独り言のように空に向かって呟く。

「…彼氏なんていないよ。ずっと勉強して、仕事に必死だったから。暮石さんこそ、変わらない。相変わらず優しくて、楽しくて…かっこいい」
「あれ? 俺ワンチャンあるッス?」

 光世がおどけて笑うと、名前は俯いてしまった。
 辺りを照らす照明があるとはいえ、俯かれてしまうと、その表情は窺えない。じっと次の言葉を待っていると、名前はぽつりぽつりと話しだした。

「私ね…暮石さんに甘えてた。真剣に考えてくれてたの、わかってたのに。でもね、恥ずかしかったの。格闘技も、仕事も、暮石さんは自分というものをしっかり持ってるのに、私は職を転々として…いつも泣いてばかり。だから、暮石さんと釣り合わないと思ったの。釣り合う女性になりたくて、必死に勉強して続けられる職にはつけたけど…独りになってた。待っててくれるなんて、なんで思ったんだろうね。私って馬鹿だなあ」

 名前は体育座りをして、足を引き寄せ腕を膝の上に置くと、その隙間に顔を埋めた。
 光世はそんな名前の頭の上に、ぽんと手を置く。

「俺は名前にフラれたと思って。すごーくショックだったな。ほんと、バカだよ、名前。…俺はずっと待ってたのに」
「……ごめんなさい…」
「今だってそうだ。ずっと、ずっっと待ってたんだ。だからこうやって再会出来て…やっぱり名前とは運命なんだってガラにもなく思ったりして。名前はあんまり運命とか信じないタイプだっけ? 案外その辺現実的だったような…まぁ俺もそんなにロマンチストではないんだけど。信じたくもなるじゃん? こんな所でまた会えるなんてさ」
「え…あ…ありがとう」

 名前は少し顔を上げて、横目で光世の顔を一瞬見ると、また俯いて消え入りそうな声で述べる。

「あれ? その反応、俺、今度こそ振られたス?」
「ち、違うよ! ただ私にその資格があるのかな、って…」

 慌てた様子で上げた名前の顔を、光世が優しく大きな手のひらで包み、額同士をコツンとぶつける。緑色の瞳が、名前の目に映った。それは、数年ぶりの光景だった。

「資格も何も。俺は昔も今も名前のことが大好きなんだけど? 考えない日はなかった。どうして俺の前からいなくなったんだろうとか、どうしたら側にいてくれたんだろうとか、毎日考えて。名前以外の彼女とか考えられないしって思ってたら、長年独り身でこの歳ッスよ? 寂しいのなんのって。…責任、とってくれるッス?」
「責任って、それはもしかして、えっと…」

 名前の頬が紅潮し、目が泳ぐ。光世はもう一度こつんと額をぶつけ、名前の視線を自分に向けた。

「そういうこと」

 じわり、と名前の目尻に涙が浮かぶ。

「あっ! 泣き虫なのは変わってないスねー、ほーら、よしよし」
「う…うう…暮石さぁぁん!」

 迷子だった子犬がやっと飼い主の元に戻ったように、名前は光世の体に抱きつき、泣きじゃくった。光世はそんな名前の体をしっかり受け止め「もう絶対に離さない」と強く抱きしめ返すと、永久の愛を誓う言葉を名前に捧げた。

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ボディソープ(ガオラン)

【タイの闘神! ガオラン・ウォンサワット選手、熱愛か?】

 現在、タイはこの話題で持ちきりだ。ボクシング界で最強を誇る、タイ国民であれば知らぬ者はいない、ガオラン・ウォンサワット。彼はボクシングの印象が強く、恋愛をするイメージを抱く国民は少ない。恋愛をするより、ただ強さを極めるというストイックなイメージが強いのである。
 だからこそ、彼の熱愛を報道したこのニュースはタイ国民の関心を強く惹きつけた。
 お相手はタイの有名な美人女優だ。やはり彼も男だったのだなと、多くの国民は納得し、熱心な女性ファンの中にはショックを隠せないものまでいた。
 だが…心中穏やかではない人物が二人、ここにいる。

 ひとりはニュースと話題の当人である、ガオラン・ウォンサワット。
 そしてもうひとりは、ガオランの”本当”の恋人だ。

 このニュースはタイ中で取り上げられ、放送されている。雑誌や新聞も同様だ。
 朝一番のニュースを見たガオランは、吹き出したコーヒーを拭きながら、慌てて恋人である名前にメッセージを送っていた。

『ニュースが言っていることは事実ではない』

 取り急ぎ送った一言だ。この時間なら、もう名前も起きている頃だと思った。
 しかし、いつもなら比較的すぐ既読になるはずのメッセージには、既読がつかない。
 寝ているのだろか。それとももう仕事へ行ったのだろうか。

『誤解しないで欲しい。詳細は夜に話す』

 ガオラン自身ももう仕事へ向かう時間だ。
 いつもならば、仕事前に一言二言は交わしているのに、今日に限って既読がつかない。出勤のギリギリまでスマートフォンを睨んでいたが、結局既読にもならず返事も来ないままだった。

「ガオランよ」

 象に乗りながら散歩をする、ガオランの主であるラルマー十三世が口を開く。少し上がった口の端。何を話すのかはすぐに察しが付いた。

「噂になっている女優はなかなか美しい女よの」
「いや、あれは…」
「しかしガオラン。お前は交際している日本人の女がいたような気がするのだが?」
「はあ…それなのですが」
「良い良い。複数の美しい女と付き合うのもまた、男の甲斐性」

 ガオランは、はあ、と曖昧な返事をしてこの話題をやり過ごした。

 護衛の仕事を終え帰路につくと、すぐにスマートフォンを開く。今朝、名前に送ったメッセージはまだ既読がついていない。

(相当怒っているのか、仕事が忙しいか…出来れば後者であってほしいものだ…)

 どちらの可能性も大いに有り得る。
 出来れば後者でと祈りながら、全力疾走で名前の家に向かった。
 雲行きが怪しい。この後の展開が空のようにならぬよう願った。

 到着すると、集合玄関でインターホンを連打した。名前からの応答はない。スマートフォンのチェックもしていないのか、やはり既読もついていない。
 外から確認すると部屋の電気はついているため、帰宅はしているのだろう。
 ポケットに手を入れ、合鍵を取り出して中に入った。
 念の為、玄関のインターフォンも鳴らすが、やはり名前は出てこない。
 合鍵を鍵穴に差し込み、施錠を解除すると中へ入った。サァァと水の音が聞こえ、どうやら名前がシャワーを浴びていることがわかり、何かあったわけではなかったのだと安堵しリビングへ向かう。

「!!」

 机の上には、普段名前が買わない類の新聞紙が置かれていた。
 見出しには堂々と「ガオラン選手熱愛か?!」の文字が書かれている。
 ガオランの表情は変わらなかったが、リビングの壁にかけられた鏡に映った自分の顔は、顔面蒼白であった。

 新聞紙が置かれたテーブルの前にあるソファに、ちんまりと座る。

「あら、ガオラン。来てたの」

 シンプルな無地のパジャマに身を包んだ名前が、髪を拭きながら姿を見せた。

名前…」

 なんと切り出せばいいのか、必死に考えたが、彼女の名前を呟くだけで精一杯だ。
 名前は普段どおりの優しい笑顔を浮かべて「何?」と答え、冷蔵庫からビールを取り出す。
 ガオランの隣に座り、ビールを机の上に置くその音が、やけに大きく聞こえた。

「……」
「………」

 沈黙が二人を包む。
 名前は新聞紙のことや、噂のことには一切触れず、時計をちらりと確認するとテレビを付けた。丁度、ニュースの時間だ。
 真っ先に聞こえたガオランの熱愛報道に、ガオランは肝を冷やした。
 名前はぐびぐびとビールを飲み、ダンッと大きな音を立てて空になった缶を机の上に置く。
 怒っている、とすぐに察した。

(まずいな…)

 熱愛報道が終わり、次のニュースに変わると、名前はすぐにテレビを消し立ち上がった。
 普段なら名前はガオランがどんなに遅く部屋へ来ても、手料理を振る舞う。簡単なものだったり、手のこんだものであったり、その時によって内容は違うが、名前の生まれである日本の料理、そしてガオランの生まれであり好物でもあるタイ料理を振る舞うことが多々ある。

「疲れてるから、寝るね」

 名前は立ち上がり、にっこりと笑う。

名前、少し話が」
「どうぞごゆっくり」

 しかし名前はガオランの言葉を遮って、目も合わせずに寝室へ向かってしまった。
 すぐに追いかけようと思ったが、何せ仕事が終わってすぐに駆けつけたのだ。シャワーも浴びていない。例え自分の家だとしても抵抗がある。それが名前の家なら、シャワーも浴びずにベッドに入れるはずがない。

「先にシャワーを借りる」

 名前からの返事はないが、ガオランは洗面所へ向かいシャワーを浴びた。
 どんなに仕事が多忙を極めようとも、常にきっちりと清掃された風呂場は気持ちが良い。
 名前が愛用している、ボディーソープは濃厚な深みのある甘い花の匂いのものだ。それとは別に、名前がガオランのために用意した、エキゾチックな匂いの清涼感のあるボディーソープがある。
 ガオランはそのボディーソープを気に入っていた。あまり他にはない好みの匂いであったし、何より名前が選んでくれたものだからだ。
 シャワーから上がると、これもまたきっちりと丁寧に畳まれた下着とガウンに足と袖を通す。
 気分は随分とスッキリしたが、気持ちは沈んだままだ。上がる頃には部屋の電気も消されていた。完璧に無視を決め込むらしい。

(いっそ罵倒されたほうが弁明もしやすいのだが…)

 そっと名前が眠るベッドに入り、背を向けて横になる名前を後ろから抱きしめた。
 名前は寝付くと、少々変わった寝息を立てる。それまたとても愛らしく、そして寝ている時にでも、ガオランが触れたり、抱きしめたりすると、嬉しそうに声を漏らすのだが、今は寝息も聞こえていない。つまりは起きているのだろう。

名前?」
「……」
「そのままでいい。話を聞いてくれ。まず誓って言うが、俺はあの女性とは何もしていない」
「‥…」
「確かに個室で食事はしたが、それだけだ。当然体に触れてもいないし、触れられてもいない。当然、それ以上のこともしていない」
「……ガオラン選手は食事の後、店を出ると、女優の部屋に姿を消しました」

 先程聞いたニュースの内容を、名前が繰り返す。

「彼女は恋愛のことで思い悩み、やけ酒をしてかなり酔っていた。足元も覚束ない状態で…。だから家まで送ったが、玄関で嘔吐してしまい、掃除を手伝った。本当にそれだけだ」

 抱きしめる腕に力を入れた。
 名前は再びだんまりを決め込み、それがガオランの不安を煽る。寝息はやはり聞こえていないため、寝てしまったわけではなさそうだ。

「…ぐす」

 僅かに鼻をすする音が聞こえた。
 ガオランは驚き、ガバリと起き上がる。しかし、名前は泣いている姿を見られたくないのか、布団の中へ身を隠してしまう。少しだけ覗く頭に軽く触れた後、布団の上からぎゅっと抱きしめる。
 名前の事をとても愛おしく思った。と同時に、こんな時でも男性として反応してしまう自分を恨む。

名前を不安にさせ、悲しませるような行動をとってしまったことは本当に反省している。今後同じことを繰り返さないと誓う。すまなかった。…だから、顔を見せてくれないか」
「…いや」

 ガオランは布団を捲ろうとするが、名前は頑として布団から顔を出そうとしない。
 名前は布団の下で、ぽろぽろと泣いていた。先程までの強い怒りは消えたものの、代わりに悔し涙が溢れてきたのだ。怒りは笑顔で誤魔化すことが出来たが、泣き顔を誤魔化すことは出来ない。
 しばし攻防が続いたが、結局布団を剥ぎ取るという単純な腕力に、名前がガオランに敵うはずもなく、布団は剥がされ泣き顔を露呈してしまった。

「……」
名前…やっと顔を見ることが出来た」

 名前は咄嗟に手で顔を隠そうとしたが、ガオランはそれを許さなかった。
 再びの謝罪と共に、キスの雨。唇に触れたしょっぱい涙の味に、ガオランの胸が痛んだ。

「どうせ、私は…あの女優さんみたいにセクシーじゃないし、胸も小さいですよ」
「自分を卑下するのは良くない。それに、俺は今のままの名前を心底…」

 ガオランは躊躇した。今、愛の言葉を伝えたとしても、その言葉はとても軽いものに捉えられてしまうのではないだろうか。

(今の名前に届くかどうか…)

「他の女性に言ったかもしれないような言葉はいらない!」

 力を緩めた隙に、名前は再び布団の中に逃げ込んでしまった。

「はあ…本当に彼女とは何もない。神に誓って言える」

 どうしたものか、と頭を抱えながら、ガオランは名前の上に覆いかぶさった。
 最初こそ、その下でじっとしていた名前だが、あまりの重さと息苦しさにすぐ顔を出す。
 女性である名前が、九十一キログラムのガオランを支える事は困難だった。

「ぷっは! 息苦しいし重いし悔しいしーー!!」

 出てきた名前の顔を、すかさずガオランの大きな手を平が包む。

「離してよ、知らない!」

 原因はガオランにあるとしても、名前が嫉妬心を見せることは滅多にないことで、そんな所も愛おしく、嬉しいと感じた。

「拗ねてむくれた顔も、涙で濡れた目も、噛んで赤い唇も…全てが愛おしいと言ったら?」
「……」
「こんなことは惚れてもいない女性には言わないが? …いや、惚れていたとしてもそうそう言わんな…」
「それは…知ってる」

 名前が今日、初めてガオランとまっすぐ視線を交える。
 ガオランは名前の目尻に残った涙を粒をそっと舐め取った。
 擽ったそうに身を捩る名前の肩を抱き寄せてみたが、彼女は抵抗しなかった。

「弁明の余地をもらっても?」

 ガオランは静かに名前の首筋に顔を埋める。風呂場に置いてある、あの濃厚な花の匂いがした。
 名前も、ガオランから自分が用意したボディソープの匂いがしたことに安堵し、胸元に顔を埋める。

「特別に許してあげる」

 やっと少し笑った名前に、ガオランも微笑みを返す。そこにはいつもの自身に満ち溢れた彼の表情があった。

「明日も仕事だけど…今夜は寝かさないでね?」
「…それは男が言う台詞だ。まあ元よりそのつもりだが」

 ガオランは布団を背負って、まずは名前の額に口づけを落とした。

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