カテゴリー: 隣の!輪虎さん

第一話 帰国

 約一ヶ月に及んだ情報収集の任を経て、私は帰国の途についていた。
 ああ…早く殿に会いたい。私は逸る気持ちを抑えられない反面、とても憂鬱だ。原因は…、ああ、考えただけで頭が痛い。

中華・名さま、顔色が優れませんが具合でも悪いのでは…」

 私が殿と趙を出る際に私兵として連れてきた、中華・名隊の副将・里丁(りてい)が心配そうに私の顔を覗き込む。「大丈夫」と簡素な返事をして、ようやく前方に見えてきた魏の城壁に安堵した。

「以上が此度の遠征で得た情報の全てでございます」
「了解した。長旅ご苦労であったな。下がって良い」
「は、失礼致します」

 報告が無事に終わり、私はふうっと息を吐く。やっと緊張の糸がほぐれた感じだ。あとは殿に会うだけ、と歩き出す。が、そこに”奴”はいた。

「わはー! 中華・名ー!」

 物陰から飛び出し、私に抱きつこうとした”奴”こと輪虎をさっと交わす。輪虎が体勢を立て直す前に、さっさと行こうと思ったけど、輪虎は私の左腕にガシッと抱きついてきた。

「ほら、中華・名。いつもの」
「…一応聞くけど、いつもの、って何かしら」
「くちづ…って、まだ話は終わってないよ」

 話の途中で歩き出した私を、駆け足で追いかけてくる輪虎。

「やめて、疲れが増す」
「なら後でのお楽しみにとっておこうかなー。中華・名はこれから殿のところへ行くんでしょ?」
「勿論よ! 殿に会うことだけを楽しみに帰ってきたんだから」
「あれっ、僕は?」

 この一月のことを思い出してみるけれど、輪虎のことを考えたのはほんの僅かな時間だけ。それも輪虎のことだけを考えただけではなく、言っては悪いが殿のことを思い出すついでに考えただけだ。

「…全くなかった、ってわけじゃないけど」
「僕は中華・名がいない間、寂しくて寂しくて訓練にも集中できな…もー、中華・名!」

 先に述べた「頭が痛い」原因は彼にある。
 元は趙の将軍で、今は魏の将軍である廉頗さま…が、絶大なる信頼を寄せる「廉頗四天王」が一人、飛槍とまで言われる輪虎。彼のことを慕う兵は多いし、思いを寄せる女性も大勢いる。何せ輪虎は将軍としてかなり腕が立つ。私より遥かに強い。そして端正かつ中性的な甘い美貌。
 実力あり、容姿よし。女性に人気が出るのも頷ける。なのに…何故か、輪虎は私に好意を寄せていて。

「僕も殿のところへ行こうかな」
「まあ、ご自由に」
「なんて、少しでも中華・名と一緒にいたいだけなんだけど」
「そう」

 とりあえず輪虎を左腕から引き離し、殿の屋敷に向かって歩き出す。輪虎は機嫌が良いようで、鼻歌まで歌っている。通りすがりの乙女が頬を染めながら輪虎の名前を呼ぶと、輪虎はひらひらと手を振って「はいはい」と返事をした。
 しかし輪虎がべったり私にくっついているものだから、これでは傍から見れば恋人同士だ。それも、将軍同士の。乙女はすっかり意気消沈して、私と輪虎が通り過ぎるのを惚けた顔で見ていた。代われるものなら代わりたいくらいだ。

「あは、誰がどう見ても僕たちはお似合いの恋人同士だ」
「いいえ、仲の良い将軍同士にしか見えないわ」
中華・名は相変わらず冷たいなぁ」

 私にべったりの輪虎に辟易することもあるが、好都合な点もある。私は特に優れた美人ではないけれど、地位のせいか言い寄ってくる男性は少なくない。でも輪虎が隣にいれば、睨みを効かせてくれるおかげで、その数はぐっと減るのだ。それでもしつこい奴はいるものの、輪虎が隣にいる時といない時では雲泥の差…などと考えている間に、殿の屋敷に到着した。

「これは輪虎さま、中華・名さま! 廉頗さまにお会いに来られたので?」
「そう。殿はいらっしゃる?」
「は、広間におられます。どうぞお通り下さい」

 見知った門番と挨拶を交わし、中に入る。私は何度も廊下を曲がって、広間を目指した。

「殿! 中華・名、只今戻りました」
「ついでに僕もいまーす」

 寝転がり、書物を見ていた殿は起き上がると、私と輪虎を見てニィと笑った。

「おお、中華・名か! 怪我は…当然ないだろうのォ」
「当然です。かすり傷一つございません」
「うぬの事だ、報告を終えて真っ先に儂のところに来たな?」
「それも当然です」
「ヌッハッハ! よっぽど儂のことが好きなんじゃのォ。 悪い気はせんわい。しかし…輪虎、うぬはまた中華・名の尻を追っかけまわしとるのか」

 殿は輪虎を見て苦笑いを浮かべる。しかし輪虎は意に介さず、にへらーと笑った。

「やだなー、当たり前じゃないですか。僕の妻に何かあったらどうするんです?」
「お? うぬらようやく結婚か?」
「今日は二人でその報告に来たんですよ」
「そんなわけないでしょう、輪虎! 殿、違います。全くの出鱈目です」
「…中華・名、少し話をするか。輪虎、少し席を外せ」
「それは命令ですか?」
「まあ、そうとも言うな」
「…いくら殿でも、中華・名と二人きりにするのは嫌だなあ…少しだけですよー?」
「わかっとるわい」

 殿は輪虎だけでなく、衛兵まで廊下に追いだし、私と二人きりの空間を作った。二人きりになると、殿の迫力に圧倒される。やはりこの御方は凄い。

中華・名。輪虎のどこが気に食わん」
「…別に気に食わないというわけでは…」
「輪虎はいい男だ。戦の腕も頭脳も文句なし。儂には劣るがのォ! ワハハ! それに心ッッ底
うぬに惚れておる。女はそうやって愛されるが今生の幸せよ」
「……」

 私だって輪虎のことが嫌いというわけではないのだ。ただ…ただ、好意を抱いているのは恐れ多くも殿で、玄峰さまのことは尊敬しており、介子坊は飲み仲間、姜燕…そして輪虎は馴染みの戦友といった思いしか抱いていない。

「それに、中華・名と輪虎の間に赤子が産まれれば、そやつは必ず将来大物の将軍になるぞい」
「確かに輪虎と結婚し、赤子を産み、我が子を立派な将軍に育てることも喜びの一つでしょう。でも私にとっては…おこがましいと思われるかもしれません、殿の手となり足となり、戦へ出向き槍を振るうほうが幸せなのです」
「フーム、何度かこの話はしておるが、平行線じゃのォ。今日のところはこの辺で勘弁してやるか。一ヶ月に渡る遠征ご苦労」
「では失礼いたします…の前に、一つ聞いていただきたいことがあるのですが…」
「ん?」
「無礼を承知でのことです、裏から出ても…よろしいでしょうか」

 殿がヌハハと笑い承諾すると、私は足音を忍ばせて裏門から屋敷を出た。
 しばらくしたところで、ふうと息を吐き後ろを振り返る。どうやら輪虎はいないようで、ほっと胸をなでおろす。そこからは歩く速度を落とし、ゆっくりと帰路についた。

「おかえりなさいませ、中華・名さま」

 私の屋敷で世話係を頼んである、癒呂(ゆろ)バアが私に頭を下げる。元は殿の身の回りの世話をしていた癒呂バア。殿に拾われた際、女には女の世話人が必要だろうと、殿が充てがってくれた。

「ただいま、癒呂バア。お風呂に入りたいの、支度してくれる?」
「風呂の用意は出来ております。いつ中華・名さまがお帰りになられても良いように…」
「さすが癒呂バアね。入ってくる。悪いんだけど、お腹も空いてるから食事の支度もお願いね」
「はい、お任せ下さい」

 久しぶりに見る、癒呂バアの優しい笑顔に心が温かくなる。
 脱衣所へ到着すると、私はフンフンと鼻歌を歌いながら腰帯をしゅるしゅると解いていく。この歌は、癒呂バアが子守唄でよく聞かせてくれた。脱いだ服は綺麗に畳んで棚に置き、風呂の引き戸を開けた。

「やあ、中華・名
「っ…」

 何故か殿の屋敷へ置き去りにしたはずの輪虎が、私の屋敷で風呂に入っていた。それも、かなり気持ちよさそうに寛いで。咄嗟に手拭で体を隠したけど、もしかしたら見られたかもしれない…。

「ど…っ、どうして輪虎がいるのよ!! ここは私の屋敷よ?!」
「癒呂さんに門を開けて、って言ったら入れてくれたんだー」
「そりゃそうよ、癒呂バアが輪虎の言葉に逆らえるはずないじゃない! …とにかく、上がって」
「え、今?」
「今すぐよ!」

 ざばっ、と輪虎が湯船から立ち上がる。私は目を丸く見開いて硬直した。

「き、きゃああああ!」
「あ」

 素っ裸の輪虎を見て、恥ずかしさの余り私は手で目を覆う。そのせいで体を隠していた手拭がはらりと落ち、あろうことか今度こそ輪虎に裸体を晒すことになってしまった。

「わはー、思わぬご褒美だ」
中華・名さま?! 如何なされましたか、中華・名さま!!」

 脱衣所の向こうで、慌てた癒呂バアの声が聞こえた。戸を開けられそうになったため、私は慌てて戸を抑える。

「何でもないの、ただ躓いただけ!」
「そうですか…悲鳴が聞こえたので、何事かと…。お背中お流し致しましょうか」

 輪虎に裸体を見られた恥ずかしさより、まるで輪虎と一緒に風呂へ入ろうとしているかのように見える、この状況を見られることのほうが厄介だ。癒呂バアは輪虎に好意的だから、余計に。

「輪虎、やっぱりお風呂に浸かって。あっち向いててちょうだい」
「え、いいの? 一緒に入るってことだよ」
「いいから。癒呂バア、私はあなたの手料理が食べたいの。それにお風呂は一人でゆっくり入りたいわ」
「かしこまりました。この癒呂、腕によりをかけて中華・名さまのお食事を作らせていただきます」

 輪虎は再び湯船に浸かり、私は彼の体を見ないように、目を逸らしながら湯船のお湯を桶に掬って体を流す。そして足からゆっくり湯船に入った。輪虎に背を向けて座る。

「アハ、中華・名の体綺麗だったなあ」
「まさか輪虎が私より先に屋敷へ帰ってるとはね…」
「この僕を出し抜けるとでも思った? 中華・名の考えることなんてお見通しだよ。戦いは相手の先の先を読まないと、ね? 殿や玄峰さまに、そう教わったでしょ」

 輪虎の勝ち誇った顔が容易に想像できた。確かに、私の詰めが甘かったことが原因だ。

「そうね」
「…ねえ」

 トン、と背中に手の感触。紛れもなく輪虎のものだ。そしてその手が触れている場所は、私が戦へ出るようになってすぐの頃、飛んできた矢が刺さった傷跡のある所。

「…何?」
「殿は何と?」
「別に。遠征に労いの言葉を下さっただけよ」

 輪虎が傷跡を撫でる。もう痛みがないとはいえ、そこを撫でられると少し不快だ。文句を言おうとした瞬間、輪虎は私の背中に胸板をぴったりとくっつけ抱きついてきた。腕は私の肩を抱き、左手で貫通した傷跡を覆っている。

「やっぱり、いくら相手が殿でも妬いてしまうな。あは、僕って相当嫉妬深い。ねえ、中華・名。この傷を負った時のこと、覚えているかい」
「ええ、私が敵将を狩るのに必死で矢に気づかなかった時のものね。忘れないわよ」
「僕も忘れたことがない。大切な中華・名に傷をつけるなんて…まあすぐ殺したけど」

 その時のことを思い出したのか、輪虎の声に憎しみと怒りが宿った。それから若干の殺気。輪虎の殺気はいつも鋭くて、未だに慣れない。ところで、私は先程から一つ気になっていることがある。

「輪虎」
「うん?」
「…その、下半身が…当たって…るんだけど」
「わは、バレた?」
「そりゃあね…大層お元気なようで」
「だって中華・名とお風呂に入ってるんだよ? 普通の男ならこうなるよねー」
「上がるわ」
「えーっ、もう?! これからがお楽しみなのに」

 輪虎の手を振り払い、手拭で体を隠しながら脱衣所へ駆け込んだ。後ろから「僕も上がるー」って声が聞こえたから、私は大急ぎで服を着て廊下へ出た。癒呂バアの作る食事の匂いが、廊下にまで届いていて私のお腹がぐうと鳴る。遠征中は質素な食事しか出来ないため、久しぶりのきちんとした食事ができそうだ。

「あら、中華・名さま…もうお風呂はよろしいので?」
「ええ、お腹も空いているから」
「申し訳ございません、すぐにご用意いたしますので」
「お願いね」
「ああ、そういえば。先程輪虎さまがお見えになったので、お通し致しました」
「…知ってるわ、さっき会ったから」
「そうですか。輪虎さまはお帰りになられたのですか?」
「さあ?」

 お風呂からは上がっただろうけど、その後のことまでは知らない。屋敷内をぶらついているのか、
帰ったのか…。
 私が座布団の上で料理が来るのを待っていると、ふーという息と共に輪虎が広間に入ってきた。

「…まだいたのね」
「え、ダメかな」
「まあいいけど」
「これはこれは輪虎さま。よろしければ、輪虎さまも如何ですか?」
「癒呂さんの料理かあ、懐かしいから食べたいけど…このあと用事があるから、僕はそろそろお暇するよ」
「左様でございますか…では、またお時間のある時に是非いらして下さい」

 輪虎は湯上がりのせいか、ほんのり頬が紅かった。肌が白いから、なんだか妙に色っぽい。しかし私は、次に輪虎が発した言葉に耳を疑った。

「家も隣同士になったことだし、いつでも来れるからね。中華・名、それじゃあ」
「ちょっと待って」
「ん? もしかして寂しい?」
「違う。隣同士ってどういう事かしら。輪虎の屋敷はここから半刻以上はかかるはずよ」
「あー、そっか。中華・名は遠征中だったから知らないんだよね、ごめんごめん」
「…?」
「僕、引っ越ししたんだよ。中華・名の屋敷の隣に、ね」
「…な!」

 輪虎がにこりと笑う。そういえばさっき、隣に大きな屋敷が見えたけれど、まさか輪虎が引っ越してきたとは…。
 ─この日から、私と輪虎のお隣さん生活は始まったのである。

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