カテゴリー: ケンガンアシュラ短編

そんな君だから(理人)

 

 拳願仕合を翌日に控えた夜。理人は豪勢な料理が並ぶ会場で、食事と酒を楽しみながらナンパに勤しんでいた。
 そんな彼の名前を呼ぶ声が聞こえた…気がした。

「ん?」
「どうかした?」
「いやいや、なんでも! …で、今夜どう?」
「うーん…どうしようかなぁ」

 ナンパ相手の女性は多少酔っているようで、このまま押せばチャンスがある、と理人は踏んでいた。もうひと押しだ。

「理人ーーッ! 無視しないでよ!」

 ドンッと背中に衝撃を受け、理人はグラスの中のシャンパンを今しがたナンパしていた女性にかけてしまった。
 声は今度こそハッキリと大きく聞こえた。聞き間違う訳もない。

名前…サン、なんでこんな所に?」
「理人いるところに私あり、私あるところに理人あり、でしょ?」

 シャンパンをかけられた女性はわなわなと震え、声を荒げる。

「女連れなら声かけないでよ! なんなの?!」

 女としてのプライド、そしてドレスを汚された怒りから、女性は手に持っていたワインを理人に浴びせると、踵を返して姿を消した。

「あーっ?! くっそォ…もう少しで落とせそうだったのにー!」
「え? 何、ナンパしてたの?」
「い、いやー…」
「私がいるのに?」
「……いやー」
「でも許しちゃう。会いたかったよ、理人」

 そう言って名前は細い腕を理人の腕に絡めた。
 むにゅりと胸があたり、理人は鼻の下を伸ばしながら名前に問いかける。

「なんで名前がここに?」
「お父さんの親戚の友達のお兄ちゃんが拳願会員で、この拳願仕合のこと聞いたんだあ」
「それはもう他人じゃねえか…」
「理人って凄く強いし、絶対参加してると思って来てみたら…って感じかな? ねえ、どうしてこの事黙ってたの?」
「それは…まぁ、ナンパが」
「理人さん、王馬さんを…って、あら?」

 そこへ、皿に料理を盛り付けた金髪眼鏡の美女が姿を見せた。王馬が、という言葉から、皿に盛り付けられた料理は彼のためのものだろう。
 野菜、肉、デザートとバランス良く盛られた皿の上の料理を見て、理人はなんとも羨ましいと王馬を恨んだ。

「理人さん、そちらの方は…」
「ち、違う! 誤解だぜ、楓ちゃん!」

 突然現れた楓の姿に、さして驚きもせず名前はニコリと微笑む。楓も思わずドキリとしてしまうほど、名前は同性から見ても可愛らしい女性だ。

「理人の知り合い? はじめまして、私、名前っていいます。見ての通り、理人の彼女です」
「秋山楓です。理人さんにこんな可愛らしい彼女さんがいらしたなんて…驚いた、といっては失礼ですが」
「だから誤解だってェ! 楓ちゃん!」

 楓は理人の声など聞こえていないかのように、辺りをキョロキョロと見渡す。

「王馬さんは…いないみたいですね。見かけませんでしたか?」
「見かけてマセン…」
「王馬? 楓さんの彼氏さんですか?」

 そう問われた楓は戸惑いつつ、頬を赤らめて「違います!」と否定し、関係性を説明した。
 聞き終えた名前は「なるほど」と頷き、楓の説明に似た風貌の人物がいなかったかと記憶を辿る。

「うーん…私も見てないかなぁ。えっと、王馬さんの名字は?」
「十鬼蛇です。十鬼蛇王馬」
「わかりました」
「…?」

 名前は静かに息を吸う。
 理人が危険を察知し、楓に耳を塞ぐよう伝えようとしたが、間に合わない。

「十鬼蛇王馬さぁぁぁん!!! こっちに来てくださーーーい!!」

 すぐ傍にいた理人と楓のみならず、周囲の人々が突然の大声に痛いほどの鼓膜の震えを感じた。
 こんな大声は聞いたことがない。初めて聞くレベルの大声に、楓は呆然と口を開く。
 だが驚くべきは周囲の順応性だろう。流石は変わり者の多い拳願会員といったところだろうか、驚きはしたようだが、既に会話なり食事なりを再開している。

 やがて、人波をかき分けて一人の男が姿を見せた。
 楓が「王馬さん」と呼んだことで、名前は彼が例の王馬という男であることを知る。

「おい、アキヤマカエデ。なんの騒ぎだ? あんな大声聞いたことねぇよ」
「ち、違います! 私の声じゃないですよ。声を出したのはこちらの女性で…探してたのは確かに私なんですけど」
「…? 誰だ?」
「お名前は名前さん。理人さんの彼女さんだそうですよ」
「…カノジョ?」

 王馬はしばらく名前を見つめた後、へえと小さく呟いた。
 さして名前に強い関心があるわけではないが、理人の彼女といえば少し興味はある。

「理人、良かったじゃねえか」
「何がだよ」
「カノジョがいて」
「いや…彼女というか、なんというか」
「…違うのか? 名前

 そもそも彼氏彼女という概念も王馬にはあまりなかったが、理人の反応が気になって問いてみた。しかし、いまいちハッキリしない。
 名前は理人の腕から離れると、落ち込んだ様子で理人に尋ねる。

「彼女…だよね? 告白してくれた…よね、理人」
「彼女っていうか、そのー」
「幸せにするって言ってくれたのに…」
「それは、その」
「…うう、うわああん!!」

 一向に自分を「彼女」と認めない理人に、名前は顔を手で覆いながら走り出してしまった。その瞳には光るものがあったようにも見える。
 驚いて「待てよ」と手を掴みたかったが、思っていたよりも名前の走る速度は素早かった。

「…」
「……」
「……?(なんだこの空気?)」
「今のは理人さんが悪いですよ」
「え、俺?!」

 楓が眼鏡越しに冷ややかな目で理人を見た。
 王馬は状況が飲み込めていないらしく、いつの間にか楓から受け取った更に乗っていた大きなステーキを頬張っている。

「告白されたんですよね? 幸せにするって、名前さんに仰ったんですよね?」
「まあ…嘘ではねえけど」
「理人さんが軟派な性格なのは知っています。でもそのように伝えたのなら、こういう時にはすぐに彼女だと説明して大切にするのがいい男というものですよ。そして、それが本当の理人さん。ですよね?」
「楓ちゃん…」

 理人はしばらく楓の顔を見つめた後、力強く頷いて名前の後を追った。
 この会場は広く、更には酔ってしまうほどに人が多い。真っ直ぐに進むことは困難だ。となると、駆けて行った方向ですら定かではない。
 しかしここで追いかけなければ男がすたるというものだ。
 ましてやそれが、名前であるのならば。

「…はあ、全く世話の焼ける。仕方のない人ですね、理人さんは。それでもどこか憎めないんですけど。ね、王馬さん」
「カエデ、これ旨いな」
「…聞いてます?」

 名前はどの方向へ駆け、どこへ向かったのか。
 先程、彼女が触れていた理人の腕には、もうその温もりも残っていない。

 名前と理人の出会いは拳願仕合でもない、全く「拳願会」とは関係のない、ただの町中だった。
 ちょっとツンとした印象があるものの、愛らしい動作で道をゆく名前に、理人が一目惚れをしたのだ。
 LINEの交換はあっさりと承諾され、すぐに理人の猛アタックが始まった。一目惚れなど理人にとっては日常茶飯事で特別なことではなかったが、すぐに名前が他の女性とは違うと気付く。
 トントン拍子に交際が始まり、明らかになったことは、名前が案外(と言えば怒るだろうが)純粋だということだった。
 ツンとした見た目とは違い、甘えん坊で寂しがり、交友関係に利害を求めず、友達思いで彼氏思い。更に言えばなかなかの変わり者で、先程の大きな声などもエピソードの一つとして記憶している。
 名前とデート中に名前がはぐれて迷子になり、人通りの多い所で渾名とはいえ大声で名前を呼ばれたことがあった。恥ずかしかったという記憶、そして理人とはぐれて怖かった寂しかったとわんわん泣く名前を愛おしく思ったことを思い出す。

 その時に思い、誓い、彼女に伝えたのだ。
名前はぜってぇ俺が幸せにしてやるからな!」…と。

 今だって寂しくてどこかで泣いているかもしれない。もしかしたら男に声をかけられているかもしれない。自分のナンパは棚に上げることになるが、そう思うと走る足と握った拳に力が入った。

 一方、名前は。

 とにかく走って辿り着いたのは、公園のような広場だった。
 美しい花々やベンチが、拳願仕合にふさわしく絢爛に照らされている。
 そしてこれまた豪奢なベンチに腰を下ろすと、深い溜め息をこぼした。

「はあ…やっぱりダメなのかな」

 思い出すのは過去に交際した男たちのこと。
 自身が変わり者だという自覚はある。そして自分に惚れる男が「ツンとした名前」を求めていることも。しかし名前は好きになってしまうと所謂「デレデレ状態」になってしまい、周りが見えなくなることもしばしばある。というか、それが名前にとっての常だろう。
 「ツンとした名前」を求めていた男はギャップに驚き、一瞬は喜ぶものの、そのデレっぷりに辟易として離れてしまうのだ。

「ただ好きなだけなのに…顔に甘えん坊ですとでも書いておこうかな」

 きっと理人も今までの男と同じく辟易したに違いない。求めていたのはツンとした名前であって、デレデレとした自分ではないのだろう。

「別にナンパなのはいいのに…私のこともちゃんと見てくれたら…」

 膝の上に置いた手にぎゅっと力を入れ、見つめた。

(理人の手、大きくてあったかくて気持ちいいんだぁ…)
名前
(そうそう、こんな風に優しく呼んでくれるんだよね。大好きな声だな…)
名前!)
(はあ匂い嗅ぎたいなぁ…一見汗の匂いがしそうだけど案外いい匂いなんだよね、特にうなじ…ふふふふ)
「…名前?」
(腕に抱きつきたいな…そのまま抱っこしてもらって、ぎゅってしてもらって…へへへ)
「大丈夫か?!」
「え?!!!」

 急にぐっと両腕を捕まれ、名前は驚き声と顔を上げた。

「あ、り、理人?!」
「理人? じゃねぇよ、大丈夫か? …なんか、その…すげえ思いつめた表情してたからよ…」
「……(後半はただ妄想してただけなんて言えない)」
「原因は俺にあるってわかってんだけどな…名前、その…悪かった!!」

 理人は砂利の上に膝をつき勢いよく土下座した。突然の土下座に、名前は驚き狼狽える。

「え?! や、やめてよ…お別れなんて嫌だよ、理人、うう…ううう、うわああん!!」
「惚れたのも告白したのも俺だし、幸せにするって約束も…って、ん? 別れる、って何だ?」
「だって理人、デレデレした私が嫌で別れるんでしょ? 皆そうなんだ、私の見た目がツンツンしてるからそういう人だと思って…私は、私は…」

 名前は周囲の僅かな人目も憚らず、わんわんと泣き出した。

「いや…? 別れるなんて微塵も思ってねぇけど…」
「うわああん!! …え?」

名前は目を丸くして理人を見つめた。驚いているのか、信じていないのか、今はまだわからない。

「ほんとに? ほんとにほんと? 別れない?」
「当たり前だろ! さっきはちょっと…その、照れくさくて彼女だって言えなかったし、俺ってこんな性格だから今後もナンパはするかもしれねぇけど…。一番大事に思ってるのも、好きなのも名前なんだぜ? 幸せにする女も名前だけだって誓って言える」
「…嘘だよ。そう言って皆離れていったんだよ」
「俺は離れねぇよ!」

 言うと同時に、理人は力強く名前を抱きしめた。夜風で冷えた名前の体がじんわりと暖まっていく。ギュッと抱きしめる力は痛い程であったが、名前にはそれが嬉しかった。

「世界一幸せにする、約束だ」
「…うう…、うん! 私も理人を世界一幸せにするからね。絶対に」
「おう!」
「子供もいっぱい欲しいなぁ、なんて」
「…そ、それは」

 ゴクリと理人が唾を飲み込む。
 実は理人と名前はまだ「したこと」がなかった。厳密に言えばあるのだ。ただ意外(と言えばやはり名前は怒るだろう)にも名前はまだ処女だった。
 そしてそれには理由がある。名前は痛みに弱く、どうしても挿入に至らないのだ。破瓜の痛みに耐えられないのである。しかも、あの大声で泣く。
 自宅は勿論ホテルでも、事件を疑われた程だった。

「じゃ、じゃあ…今夜あたり…?」
「…うん! 痛いのは嫌だけど、頑張る」
「っしゃあ!!!」

 思わずガッツポーズを取った理人は、すぐにハッとして言い繕う。決して体や、することだけが目的なのではなく、名前と一緒になれることが嬉しいのだと。

「わかってるってば」

 名前はそう言って屈託なく笑った。

 翌日、名前は楓の隣で理人の仕合を見守り声援を上げていた。
 相変わらずの大声に、鼓膜が痛いなと思いつつも、懸命に応援する名前を微笑ましく思い、楓は飲み物を口に含む。
 ふいに、名前の理人を応援する声が止まり、彼女らしからぬ小声で楓に問いかける。

「楓さん、あの、一つ質問が」
「え、あ、今ですか?」

 仕合のことだろうか、と楓は笑顔で応じるが、その直後に放たれた名前の言葉に凍りついた。

「その…男の人のアレが大きい場合って、どうやってすればそんなに痛くないですか?」
「…?! ややややや山下社長…!!」

 咄嗟に隣の一夫に助けを求め、一夫はこのタイミングでの唐突な質問に飲み物を吹き出し、楓を三度見ほどしてから真顔で「そうですね…」と答えだす。
 しかし楓は聞いていない。そんなに経験豊富に見えるのだろうかという僅かなショックと動揺を、理人への声援に変えて名前に負けず劣らずの大声を張り上げ、ビールの売り子に「一杯下さい!!」とやけ酒に走るのであった。

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「愛を誓う言葉を君に」(暮石光世)

「…名前…?」
「えっ、くれい、し…さん?」
「やっぱり名前だ! 元気だった?」

 名前と光世は思わぬ場所で再会を果たした。
 場所は拳願絶命トーナメントが行われる願流島だ。トーナメント前夜である今、会場はすでに集まった拳願会員と闘技者で盛り上がっている。
 名前がここにいるということは、光世にとって全く予想だにしていないことだった。
 そもそも顔を見るのも数年ぶり。言葉を交わしたのも数年ぶり。
 かつては共に過ごし、時に笑い、時にふざけ合い、愛し合った仲。二人は恋人「だった」。

「えっと…はい、元気です」
「よかった。あのさ!」

 一歩、光世が名前に向かって足を踏み出すと、名前はじりっと後退する。また一歩近づいても、彼女は後ろに下がっていく。
 完璧なる「拒絶」の意思を示す名前に、光世はがっくりと項垂れた。

「そんなあからさまに避けなくても」
「い、いえ…避けてるわけじゃなくて。これからお仕事で…お客様を待たせてて」
「お客さん?」

 久しぶりに見る名前の愛らしい表情や、伸びた髪の毛に気を取られていたが、よく見てみると名前は白衣を着ている。
 光世にとっても馴染みのあるそれは、医者のものではなく、整体師や整骨師のものに近い。真っ白は白衣は、純粋で真っ直ぐな名前によく似合っていた。

「元気そうで何より。あれから何してた?」
「んっと…仕事、頑張ってたかな…」

 何の仕事なのかと問おうとしたが、名前はペコリと頭を下げるとその場を走り去ってしまった。
 小さくなる後ろ姿を見ながら、光世は淋しげに目を伏せる。

(やっぱり…、俺の側にはいてくれないんスね…)

「師匠~!」

 ふいに背後から明るい声で「師匠」と呼ばれ振り向く。そこには愛弟子のコスモが大きな骨付き肉を片手に手を振っていた。

「これ食べてさ、ギリギリまでトレーニングしたい…って、どうしたの? なんか元気ないね」

 コスモは肉にかぶりつきながら、しかし心配そうな表情をして光世の顔を覗き込む。

「昔の彼女がいたからびっくりしてただけー。コスモはそんなこと気にしなくていいの」
「昔の彼女…、ああ! 名前さん…、だっけ」
「そ」
「興味あるなー、師匠がそこまで好きになる女性のこと。トレーニングしながら聞かせてよ!」

 トーナメントに向けては、多くの闘技者がギリギリまで調整を行っている。コスモもその例には漏れない。名前の事を話すかどうかはともかく、光世はトレーニングのために場所を移し、コスモと共にスパーリングを行った。
 トーナメントに支障が出ない程度のスパーリングを行った後、冷えた水をコスモに渡すと、コスモは興味津々といった様子で再度同じ質問をした。

「ねえ、師匠。名前さんってどんな人?」
「ん~、そうだなぁ…」

 光世はかつて恋人だった名前の事を思い出す。
 彼女は甘えん坊で、ちょっと泣き虫な女性だった。人とコミュニケーションを取るのが苦手で、人間関係が上手く築けず職を転々とし、今回もダメだったと泣いては、光世に撫でられてその胸で眠っていた。
 翌朝になると、泣きはらした目を恥ずかしそうに擦りながら「もう一度頑張ってみる」と笑う。
 そんな健気で一生懸命なところが好きだった。

名前は女の子なんだしさ、俺と結婚しちゃえばいいのに』

 半分冗談、半分本気で、そんな言葉を名前に伝えたことがある。
 まだ互いに若かったが、真剣な交際をしているつもりだったし、将来の事も考えていた。いつかは言おうと思っていた言葉。それが、少し早まっただけだった。
 名前はうーんと数秒考えてから「一度くらいはちゃんと仕事を続けてから…」と、光世なりに勇気を出したプロポーズを保留にしたのだ。
 それから、なんとなく連絡をとる頻度が低くなり、やがてプツリと連絡が途絶えた。

「…ってことで、ああ、お別れなんだなと。さっきも逃げるように走っていったし」
「へえ。でも名前さんだって師匠と会えて嬉しかったんじゃない? 仕事があったから行っただけでしょ」
「ないない。絶対ない」
「なんでさ、師匠らしくないよ。さよならって言われたわけでもないんだし」

 よくよく過去を思い出す。確かに、さよならというメールが来たわけでも、電話が来たわけでもない。でもきっと名前の性格上言えなかったのだろう、と光世は考えていた。
 いっそ「さよなら」と言われていれば、きっぱりと諦めることも出来るのに…そこまで考えて、まだ彼女を作ったことのないコスモからのアドバイスが生意気な気がした。

「これは大人の話だから。はい、名前の話終了!」
「えー!」

 ぶーと頬を膨らませたコスモの頬を指でつついた後、トレーニング終了を告げて、気を紛らわせるために酒を買い込んで部屋に戻った。

・・
・・・

「はあ…」

 仕事を終えた名前は、Tシャツにショートパンツというラフな格好で海が見える木の下に座っていた。
 もう時間も遅く、明日は皆が待ちかねているトーナメント初日だ。人もいないだろうと踏んで来たが、周りにはカップルが多く、到着して数分が経っただけだがここに来たことを後悔していた。
 夜の海は怖いが、ここの海はライトアップされており十分に明るい。
 水着を来て浅瀬ではしゃぐカップルを見ながら、思わぬ再会を果たした光世のことを考える。

(もっと話しがしたかったのに…暮石さんに、今の私をしっかり見てもらいたかったのに…。私のバカ)

 思わぬ再会と考えるのは少々語弊がある。
 元々光世が何か裏と繋がりがあることに、名前は薄々勘付いていた。そのため、むしろ思わぬ再会だと感じたのは、裏世界とは無縁に生きてきた名前とトーナメントで再会した光世だろう。

 泣いてばかりで、職を転々としていたあの頃とは違う。
 今となってはしっかりとした社会人になった自分を、名前は光世に見てもらいたかったのだ。…たとえ、今はもう、光世の側にいるのが名前ではないとしても。
 そして連絡が途絶えたということは、関係も途絶えたということ。「今なら自信を持ってあなたの側にいられる」などと言えるはずもない。

・・
・・・

 トーナメント中日。
 施術が終わった名前は、再びラフなTシャツとショートパンツに着替え、海辺に来ていた。
 先日カップルだらけで辟易したというのに、ここへ来てしまうのは何故だろうか、と自問自答する。幸せなカップルを見ていると、それに光世と自分の姿を重ねる事ができるからだろうか。

「ふう…」

 冷たい風が心地良い。仕事内容には慣れてきたが、客との会話は未だに慣れない。
 名前は現在、整体師として働いている。整骨院で働く光世とは少し違うが、彼からの影響はかなり大きい。
 女性に向けた、顔の歪みを治す施術を得意としており、それに特化した店で働いている。女性の拳願会員も案外と多いため、彼女たちには非常にウケが良かった。仕事にはやりがいを感じているし、これからも頑張っていきたいと思っているため、勉強を欠かしたことはない。
 しかし、今ばかりは光世のことで頭がいっぱいだった。会いたい、声が聞きたい、と彼のことばかりを考えてしまう。

 いつでも強く、優しく、泣き虫な自分を抱きしめてくれた。きっと今は新しい彼女がいるのだろう。そう考えると胸が締め付けられた。

「…暮石さん…」
「はいはい、何スか?」

 予想もしていなかった光世の声と共に、頬にひやりと冷たいものが触れ、名前は小さく肩を震わせた。驚き振り向くと、そこには名前の目線まで腰を落としてニカッと笑う光世の姿があり、名前はぱくぱくと口を動かす。

「な、なん…」

 あまりの驚きに言葉が出てこなかった。

「俺のこと、呼んだでしょ? はい、これ」

 変わらぬ笑顔の光世が名前に差し出したのは、ちょっとマイナーなメーカーの紅茶だ。かなり甘みの強い紅茶で、飲む人を選ぶものだが名前の大好物だった。

「俺の記憶では…─、名前は紅茶ならこのメーカーが一番好き。でしょ? まさかここにあるとは思ってなかったスけど」

 おずおずと受け取った名前は、目で「飲んでもいいの?」と問いかける。光世が頷くと、キャップを開けて一口飲み込んだ。あの砂糖がたっぷり入った、ちょっと体に悪そうな甘みが口いっぱいに広がる。

「…覚えてて、くれたんだ」
「忘れるわけないし? 名前、これ。夜は冷えるから羽織って」

 光世はそう言うと、自らが羽織っていたパーカーをそっと名前の肩にかけた。ふわっと光世の香りとぬくもりを感じると、名前は懐かしさと心地よさに目を細める。
 隣でプシュッと音がして視線を向けると、光世が自分用に買ってきた飲み物を開けたようだ。握られたペットボトルのパッケージには「癖になる旨さ! カレースパークリング!」と書かれている。一体どんな味がするのだろうか、と名前は光世がそれに口をつける様子をじっと見た。

「…何これマッズ! 商品としてアリなのこれ?! カレーへの冒涜ッス…」

 名前には想像もつかないが、多分癖にはならない味なのだということは理解できた。

「ふふ…暮石さん、変わらないね」
「…名前は変わった。前より自信のある表情だし、元から可愛いのにもっと、うんと可愛くなった。今の彼氏にだけ見せる顔があるのかと思うと、妬けるなー」

 光世はカレースパークリング飲料を隣に起き、キャップを締めながら、独り言のように空に向かって呟く。

「…彼氏なんていないよ。ずっと勉強して、仕事に必死だったから。暮石さんこそ、変わらない。相変わらず優しくて、楽しくて…かっこいい」
「あれ? 俺ワンチャンあるッス?」

 光世がおどけて笑うと、名前は俯いてしまった。
 辺りを照らす照明があるとはいえ、俯かれてしまうと、その表情は窺えない。じっと次の言葉を待っていると、名前はぽつりぽつりと話しだした。

「私ね…暮石さんに甘えてた。真剣に考えてくれてたの、わかってたのに。でもね、恥ずかしかったの。格闘技も、仕事も、暮石さんは自分というものをしっかり持ってるのに、私は職を転々として…いつも泣いてばかり。だから、暮石さんと釣り合わないと思ったの。釣り合う女性になりたくて、必死に勉強して続けられる職にはつけたけど…独りになってた。待っててくれるなんて、なんで思ったんだろうね。私って馬鹿だなあ」

 名前は体育座りをして、足を引き寄せ腕を膝の上に置くと、その隙間に顔を埋めた。
 光世はそんな名前の頭の上に、ぽんと手を置く。

「俺は名前にフラれたと思って。すごーくショックだったな。ほんと、バカだよ、名前。…俺はずっと待ってたのに」
「……ごめんなさい…」
「今だってそうだ。ずっと、ずっっと待ってたんだ。だからこうやって再会出来て…やっぱり名前とは運命なんだってガラにもなく思ったりして。名前はあんまり運命とか信じないタイプだっけ? 案外その辺現実的だったような…まぁ俺もそんなにロマンチストではないんだけど。信じたくもなるじゃん? こんな所でまた会えるなんてさ」
「え…あ…ありがとう」

 名前は少し顔を上げて、横目で光世の顔を一瞬見ると、また俯いて消え入りそうな声で述べる。

「あれ? その反応、俺、今度こそ振られたス?」
「ち、違うよ! ただ私にその資格があるのかな、って…」

 慌てた様子で上げた名前の顔を、光世が優しく大きな手のひらで包み、額同士をコツンとぶつける。緑色の瞳が、名前の目に映った。それは、数年ぶりの光景だった。

「資格も何も。俺は昔も今も名前のことが大好きなんだけど? 考えない日はなかった。どうして俺の前からいなくなったんだろうとか、どうしたら側にいてくれたんだろうとか、毎日考えて。名前以外の彼女とか考えられないしって思ってたら、長年独り身でこの歳ッスよ? 寂しいのなんのって。…責任、とってくれるッス?」
「責任って、それはもしかして、えっと…」

 名前の頬が紅潮し、目が泳ぐ。光世はもう一度こつんと額をぶつけ、名前の視線を自分に向けた。

「そういうこと」

 じわり、と名前の目尻に涙が浮かぶ。

「あっ! 泣き虫なのは変わってないスねー、ほーら、よしよし」
「う…うう…暮石さぁぁん!」

 迷子だった子犬がやっと飼い主の元に戻ったように、名前は光世の体に抱きつき、泣きじゃくった。光世はそんな名前の体をしっかり受け止め「もう絶対に離さない」と強く抱きしめ返すと、永久の愛を誓う言葉を名前に捧げた。

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ボディソープ(ガオラン)

【タイの闘神! ガオラン・ウォンサワット選手、熱愛か?】

 現在、タイはこの話題で持ちきりだ。ボクシング界で最強を誇る、タイ国民であれば知らぬ者はいない、ガオラン・ウォンサワット。彼はボクシングの印象が強く、恋愛をするイメージを抱く国民は少ない。恋愛をするより、ただ強さを極めるというストイックなイメージが強いのである。
 だからこそ、彼の熱愛を報道したこのニュースはタイ国民の関心を強く惹きつけた。
 お相手はタイの有名な美人女優だ。やはり彼も男だったのだなと、多くの国民は納得し、熱心な女性ファンの中にはショックを隠せないものまでいた。
 だが…心中穏やかではない人物が二人、ここにいる。

 ひとりはニュースと話題の当人である、ガオラン・ウォンサワット。
 そしてもうひとりは、ガオランの”本当”の恋人だ。

 このニュースはタイ中で取り上げられ、放送されている。雑誌や新聞も同様だ。
 朝一番のニュースを見たガオランは、吹き出したコーヒーを拭きながら、慌てて恋人である名前にメッセージを送っていた。

『ニュースが言っていることは事実ではない』

 取り急ぎ送った一言だ。この時間なら、もう名前も起きている頃だと思った。
 しかし、いつもなら比較的すぐ既読になるはずのメッセージには、既読がつかない。
 寝ているのだろか。それとももう仕事へ行ったのだろうか。

『誤解しないで欲しい。詳細は夜に話す』

 ガオラン自身ももう仕事へ向かう時間だ。
 いつもならば、仕事前に一言二言は交わしているのに、今日に限って既読がつかない。出勤のギリギリまでスマートフォンを睨んでいたが、結局既読にもならず返事も来ないままだった。

「ガオランよ」

 象に乗りながら散歩をする、ガオランの主であるラルマー十三世が口を開く。少し上がった口の端。何を話すのかはすぐに察しが付いた。

「噂になっている女優はなかなか美しい女よの」
「いや、あれは…」
「しかしガオラン。お前は交際している日本人の女がいたような気がするのだが?」
「はあ…それなのですが」
「良い良い。複数の美しい女と付き合うのもまた、男の甲斐性」

 ガオランは、はあ、と曖昧な返事をしてこの話題をやり過ごした。

 護衛の仕事を終え帰路につくと、すぐにスマートフォンを開く。今朝、名前に送ったメッセージはまだ既読がついていない。

(相当怒っているのか、仕事が忙しいか…出来れば後者であってほしいものだ…)

 どちらの可能性も大いに有り得る。
 出来れば後者でと祈りながら、全力疾走で名前の家に向かった。
 雲行きが怪しい。この後の展開が空のようにならぬよう願った。

 到着すると、集合玄関でインターホンを連打した。名前からの応答はない。スマートフォンのチェックもしていないのか、やはり既読もついていない。
 外から確認すると部屋の電気はついているため、帰宅はしているのだろう。
 ポケットに手を入れ、合鍵を取り出して中に入った。
 念の為、玄関のインターフォンも鳴らすが、やはり名前は出てこない。
 合鍵を鍵穴に差し込み、施錠を解除すると中へ入った。サァァと水の音が聞こえ、どうやら名前がシャワーを浴びていることがわかり、何かあったわけではなかったのだと安堵しリビングへ向かう。

「!!」

 机の上には、普段名前が買わない類の新聞紙が置かれていた。
 見出しには堂々と「ガオラン選手熱愛か?!」の文字が書かれている。
 ガオランの表情は変わらなかったが、リビングの壁にかけられた鏡に映った自分の顔は、顔面蒼白であった。

 新聞紙が置かれたテーブルの前にあるソファに、ちんまりと座る。

「あら、ガオラン。来てたの」

 シンプルな無地のパジャマに身を包んだ名前が、髪を拭きながら姿を見せた。

名前…」

 なんと切り出せばいいのか、必死に考えたが、彼女の名前を呟くだけで精一杯だ。
 名前は普段どおりの優しい笑顔を浮かべて「何?」と答え、冷蔵庫からビールを取り出す。
 ガオランの隣に座り、ビールを机の上に置くその音が、やけに大きく聞こえた。

「……」
「………」

 沈黙が二人を包む。
 名前は新聞紙のことや、噂のことには一切触れず、時計をちらりと確認するとテレビを付けた。丁度、ニュースの時間だ。
 真っ先に聞こえたガオランの熱愛報道に、ガオランは肝を冷やした。
 名前はぐびぐびとビールを飲み、ダンッと大きな音を立てて空になった缶を机の上に置く。
 怒っている、とすぐに察した。

(まずいな…)

 熱愛報道が終わり、次のニュースに変わると、名前はすぐにテレビを消し立ち上がった。
 普段なら名前はガオランがどんなに遅く部屋へ来ても、手料理を振る舞う。簡単なものだったり、手のこんだものであったり、その時によって内容は違うが、名前の生まれである日本の料理、そしてガオランの生まれであり好物でもあるタイ料理を振る舞うことが多々ある。

「疲れてるから、寝るね」

 名前は立ち上がり、にっこりと笑う。

名前、少し話が」
「どうぞごゆっくり」

 しかし名前はガオランの言葉を遮って、目も合わせずに寝室へ向かってしまった。
 すぐに追いかけようと思ったが、何せ仕事が終わってすぐに駆けつけたのだ。シャワーも浴びていない。例え自分の家だとしても抵抗がある。それが名前の家なら、シャワーも浴びずにベッドに入れるはずがない。

「先にシャワーを借りる」

 名前からの返事はないが、ガオランは洗面所へ向かいシャワーを浴びた。
 どんなに仕事が多忙を極めようとも、常にきっちりと清掃された風呂場は気持ちが良い。
 名前が愛用している、ボディーソープは濃厚な深みのある甘い花の匂いのものだ。それとは別に、名前がガオランのために用意した、エキゾチックな匂いの清涼感のあるボディーソープがある。
 ガオランはそのボディーソープを気に入っていた。あまり他にはない好みの匂いであったし、何より名前が選んでくれたものだからだ。
 シャワーから上がると、これもまたきっちりと丁寧に畳まれた下着とガウンに足と袖を通す。
 気分は随分とスッキリしたが、気持ちは沈んだままだ。上がる頃には部屋の電気も消されていた。完璧に無視を決め込むらしい。

(いっそ罵倒されたほうが弁明もしやすいのだが…)

 そっと名前が眠るベッドに入り、背を向けて横になる名前を後ろから抱きしめた。
 名前は寝付くと、少々変わった寝息を立てる。それまたとても愛らしく、そして寝ている時にでも、ガオランが触れたり、抱きしめたりすると、嬉しそうに声を漏らすのだが、今は寝息も聞こえていない。つまりは起きているのだろう。

名前?」
「……」
「そのままでいい。話を聞いてくれ。まず誓って言うが、俺はあの女性とは何もしていない」
「‥…」
「確かに個室で食事はしたが、それだけだ。当然体に触れてもいないし、触れられてもいない。当然、それ以上のこともしていない」
「……ガオラン選手は食事の後、店を出ると、女優の部屋に姿を消しました」

 先程聞いたニュースの内容を、名前が繰り返す。

「彼女は恋愛のことで思い悩み、やけ酒をしてかなり酔っていた。足元も覚束ない状態で…。だから家まで送ったが、玄関で嘔吐してしまい、掃除を手伝った。本当にそれだけだ」

 抱きしめる腕に力を入れた。
 名前は再びだんまりを決め込み、それがガオランの不安を煽る。寝息はやはり聞こえていないため、寝てしまったわけではなさそうだ。

「…ぐす」

 僅かに鼻をすする音が聞こえた。
 ガオランは驚き、ガバリと起き上がる。しかし、名前は泣いている姿を見られたくないのか、布団の中へ身を隠してしまう。少しだけ覗く頭に軽く触れた後、布団の上からぎゅっと抱きしめる。
 名前の事をとても愛おしく思った。と同時に、こんな時でも男性として反応してしまう自分を恨む。

名前を不安にさせ、悲しませるような行動をとってしまったことは本当に反省している。今後同じことを繰り返さないと誓う。すまなかった。…だから、顔を見せてくれないか」
「…いや」

 ガオランは布団を捲ろうとするが、名前は頑として布団から顔を出そうとしない。
 名前は布団の下で、ぽろぽろと泣いていた。先程までの強い怒りは消えたものの、代わりに悔し涙が溢れてきたのだ。怒りは笑顔で誤魔化すことが出来たが、泣き顔を誤魔化すことは出来ない。
 しばし攻防が続いたが、結局布団を剥ぎ取るという単純な腕力に、名前がガオランに敵うはずもなく、布団は剥がされ泣き顔を露呈してしまった。

「……」
名前…やっと顔を見ることが出来た」

 名前は咄嗟に手で顔を隠そうとしたが、ガオランはそれを許さなかった。
 再びの謝罪と共に、キスの雨。唇に触れたしょっぱい涙の味に、ガオランの胸が痛んだ。

「どうせ、私は…あの女優さんみたいにセクシーじゃないし、胸も小さいですよ」
「自分を卑下するのは良くない。それに、俺は今のままの名前を心底…」

 ガオランは躊躇した。今、愛の言葉を伝えたとしても、その言葉はとても軽いものに捉えられてしまうのではないだろうか。

(今の名前に届くかどうか…)

「他の女性に言ったかもしれないような言葉はいらない!」

 力を緩めた隙に、名前は再び布団の中に逃げ込んでしまった。

「はあ…本当に彼女とは何もない。神に誓って言える」

 どうしたものか、と頭を抱えながら、ガオランは名前の上に覆いかぶさった。
 最初こそ、その下でじっとしていた名前だが、あまりの重さと息苦しさにすぐ顔を出す。
 女性である名前が、九十一キログラムのガオランを支える事は困難だった。

「ぷっは! 息苦しいし重いし悔しいしーー!!」

 出てきた名前の顔を、すかさずガオランの大きな手を平が包む。

「離してよ、知らない!」

 原因はガオランにあるとしても、名前が嫉妬心を見せることは滅多にないことで、そんな所も愛おしく、嬉しいと感じた。

「拗ねてむくれた顔も、涙で濡れた目も、噛んで赤い唇も…全てが愛おしいと言ったら?」
「……」
「こんなことは惚れてもいない女性には言わないが? …いや、惚れていたとしてもそうそう言わんな…」
「それは…知ってる」

 名前が今日、初めてガオランとまっすぐ視線を交える。
 ガオランは名前の目尻に残った涙を粒をそっと舐め取った。
 擽ったそうに身を捩る名前の肩を抱き寄せてみたが、彼女は抵抗しなかった。

「弁明の余地をもらっても?」

 ガオランは静かに名前の首筋に顔を埋める。風呂場に置いてある、あの濃厚な花の匂いがした。
 名前も、ガオランから自分が用意したボディソープの匂いがしたことに安堵し、胸元に顔を埋める。

「特別に許してあげる」

 やっと少し笑った名前に、ガオランも微笑みを返す。そこにはいつもの自身に満ち溢れた彼の表情があった。

「明日も仕事だけど…今夜は寝かさないでね?」
「…それは男が言う台詞だ。まあ元よりそのつもりだが」

 ガオランは布団を背負って、まずは名前の額に口づけを落とした。

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少年以上男未満(今井コスモ)

 コスモは、格段寝付きが悪いわけではない。むしろどちらかというと、寝付きやすい体質だ。
 しかし今夜の彼は、寝返りを打っては、スマートフォンを見て、顔を赤くしては枕に顔を埋める。そしてまた寝返りをうち、スマートフォンを開き…と、全く同じ動作を何度も繰り返していた。
 理由は「明日の予定」だ。話は数日前に遡る。

 その日の拳願仕合も、たいして苦戦はしなかった。大きな怪我もない。
 ファストフード店でたらふくハンバーガーを食べた後、帰路につきながら、コスモは家に電話をして風呂の用意を頼んだ。帰宅するなり真っ先に風呂場へ向かい、服を脱ぎ始めた時である。
 ふいに、コスモのスマートフォンが鳴った。着信音は、最近コスモが気に入って聞いているアーティストのものだ。

(タイミング悪いなあ…)

 そう思いながらスマートフォンを手に取り、誰からの着信だろうとモニターを確認すると、コスモはピタリと動きを止める。モニターに表示されていたのは「苗字 名前」の文字。その名を見た途端、風呂のことなどどうでも良くなり、すぐに受話ボタンを押した。

「もしもし?」

 そっと携帯を耳に当て、やや緊張の面持ちで、しかしそれを悟られまいと冷静を装う。心臓はドキドキとうるさいくらいに高鳴り、名前の言葉を待った。

『あ! コスモくん? よかったー、繋がって。今大丈夫かな?』

 受話口から明るい名前の声が聞こえる。その心地よさに、コスモはうっとりとした。

「大丈夫! どうしたの? 名前さんから連絡来るなんて珍しいね」

 名前はコスモの師匠である暮石光世の知り合いで、たまにトレーニング中にひょっこりと顔を出しては、主に食事の差し入れを持ってきたり、他の闘技者の情報を入手してきたりと、コスモのサポートに尽力している女性であり、コスモの想い人であった。
 そんな彼女から電話がかかってきて、嬉しくないわけがない。ふと洗面台の鏡を見ると、自分自身でも笑ってしまうくらい嬉しそうにしている自分の姿があった。

『うん、実は…週末にね、友達と温泉旅行へ行く予定だったんだけど…その子が急に来られなくなっちゃって。キャンセル料金取られるのって、なんだか悔しいじゃない?』
「そうだよね、結構高いし」

 名前もコスモも、裏社会に生きる人間として、十分な稼ぎはある。それでもキャンセル料金が嫌なのは、値段の問題ではなく気持ちの問題だ。

『だから良かったらコスモくん、どうかなって思って。お誘いしてみました~』
「ええ、俺?!」

 受話口越しに名前が笑う。コスモは動揺する心を悟られまいと、努めて冷静に答えた。

「俺じゃなくても、名前さんなら他に誘える人いっぱいいるでしょ?」

 すぐにでも「行く!」と答えたかったが、それではガッツいているような気がして、コスモはグッと堪えて返答した。

『えー…暮石さんとか? 暮石さんとっていうのは、ちょっと想像出来ないなぁ。私、友達少なくて。だからコスモくんに電話したんだけど…無理そうなら、暮石さん誘ってみようかな』
「え! それはダメ!」

 急に語気を強めたコスモに驚いた様子で、名前は「え、あ、うん」と困惑気味に答える。
 名前と光世の付き合いが長いということは、普段の二人を見ていればなんとなく察することが出来る。しかし、そこに恋愛感情があるのかと言われれば、ないと予想できた。
 もし名前が温泉旅行に誘ったのが光世だったとして、そこから関係が発展するとも考えにくい。しかし万が一ということもある。

『一週間後って、仕合は入ってるの?』
「うん、入ってないよ。仕合は今日だった」
『じゃあ一緒に行こ! 私が車で迎えに行くね。宿までは、コスモくんの家からだと…多分二時間くらいかな』
「う…うん。じゃあ連れて行ってもらおう、かな?」
『決まりね!』

 名前は嬉しそうにそう言うと、当日迎えに行く時間を告げて、電話を切った。
 自宅に年上の女性が迎えに来る。そして一泊してくる。そんなことを実家暮らしのコスモが堂々と出来るはずもなく、その後の名前との相談で、待ち合わせ場所が近所のコンビニへ変更された。

 それが数日前の話。指折り数えて、ついに明日が温泉へ行く日である。
 名前と二人きりになったことがないわけではないし、宿では部屋も別であろうが、彼女と長く過ごせる夜があるということは、コスモにとって最大の喜びだ。
 明日の夜、少しでも長く名前と過ごせるように、早く眠らなくては…─
 コスモはお気に入りの音楽を小さな音で流すと、そっと目を瞑り、やがて夢の中へと落ちていった。

 男の荷物は女性ほど多くはない。起床後、簡単に荷物を纏めて家を出ると、約束のコンビニに向かう。車の中で飲むジュースや、夜のお菓子を買い込み、コンビニの外で名前を待った。
 やがて見覚えのある車が駐車場に停まる。それはCMでもよく見かける、女性向けの丸みのあるフォルムが可愛らしい車だ。豪華なスポーツカーではないのが、なんとも名前らしい。
 コスモが逸る気持ちを抑えて車に近づくと、窓が開き名前が笑顔を覗かせた。

「コスモくん! おはよう。待たせちゃったかな、ごめんね。乗って乗って」
「おはよう、名前さん。ううん、時間ぴったりだよ。それじゃ、お邪魔しまーす」

 車内には埃一つ落ちておらず、掃除が行き届いていた。強い芳香剤の匂いもしないが、車特有の臭いもしない。だが、名前特有のふんわりとした優しい香りが漂っていた。

「これ、よかったら。名前さんの好きなやつがあるといいんだけど」
「え? あ、ありがとう。助かる!」

 先程購入したジュースを差し出すと、名前は喜んで受け取り、片手で器用にキャップを開けると少量を口に含む。まだ若いけれど、きちんと気遣いが出来ることに名前は感心した様子を見せた。

「何か音楽流す?」

 名前がハンドルを握り、前を向いたままコスモに問いかける。コスモはあまり気にしていなかったが、そういえば車内にBGMが流れていない。車の持ち主であり運転手である。名前の音楽の好みを知るチャンスだったのにと考えながら「大丈夫」と答え、チラッと名前の横顔を見た。
 すっと通った鼻筋。長いまつ毛。形のよい唇に塗られた透明感のあるピンクのグロス。全てに、胸がドキドキと煩いくらいに高鳴った。
 日頃、トレーニング中に名前が顔を出しても、大抵はその場に光世が一緒だ。二人きりになることがあっても、何時間もということはまずない。しかし今夜は違う。たった今から、明日の朝まで、名前と二人きりだ。
 何をしようか? 一緒にテレビを見ようか、おやつも食べよう。ああ、UNOやトランプを持ってくればよかっただろうか。
 そんなピュアなことを考えていたコスモに、名前は前を向いたまま「あ、そうそう」と口を開く。

「今日行く温泉、混浴だけど大丈夫だよね」
「……?!」

 コスモの顔色が変わった。どんどん顔が熱を帯び、肌が赤くなっていく。口が金魚のようにパクパクとしか動かない。

「えっ、えっ…それは、俺は…!」

 わかりやすく動揺するコスモに、名前は思わず吹き出した。

「あは! 相変わらず、コスモくんは恥ずかしがり屋だなぁ。お風呂の色が乳白色だから、入っちゃえば見えないし平気平気」
「そ、そういう問題じゃなくて! 混浴なんて聞いてないし、その…」
「じゃあ、入る時間をずらせばいいね。二十四時間入れるところだから」
「うん…そう、する」

 未だドキドキと煩い心臓を押さえ、コスモは自分を落ち着かせようをジュースを飲んだ。
 車はやがて山道に入り、道にはカーブが続き、風景は緑が濃く深くなっていく。
 名前の運転はとても上手く、狭い道の対向も難なくこなしていった。

 やがて到着した宿は、やや古い印象を受けるが味がある造りだ。豪華な宿というより「隠れ宿」といった言葉がぴったりで、山奥でひっそりと、けれどしっかりと客人を迎えている。

「よいしょ、っと」
「あ、俺持つよ」
「そう? ありがと」

 少量ではあったが名前の荷物を受け取ると、車を降りて宿の入り口に向かう。多くはないが、何台か車が停まっているのを確認できた。
 ドアを開けると、仲居が深々と頭を下げて、名前とコスモを出迎える。

「こんにちは。予約していた苗字です」
苗字さまですね。お待ちしておりました」

 受付で手続きを済ませ、仲居に案内を任せ部屋まで向かい、通された部屋は一〇八号室。

「それでは失礼いたします」

 仲居が再び深々と頭を下げ、部屋を立ち去る時に、コスモは気づいてしまった。
 そう、案内をされ鍵を渡されたのは一〇八号室の分ただ一つだけなのだ。ポカーンとしていると、荷物を受け取ろうとした名前が問いかけた。

「どうしたの? コスモくん」
「…名前さん。部屋って…ここ、だよね」
「うん、そうだよ」
「ここに二人で泊まる…ってこと?」
「うん、そう」
「!?!?」

 コスモがズザァ!と音を立てて、壁に体を寄せる。手と頭を横に振り、その顔は「混浴」と知らされた時よりも遥かに赤い。

「だめだめだめ、それはダメ! 名前さんと同じ部屋はダメ!」
「あれ、言ってなかったっけ…。うーん、空室があればもう一つ部屋取るけど…聞いてこようか?」

 今度は手と頭を縦に振る。名前は「待っててね」と言い残して部屋を出ていった。パタリとドアが閉まり、名前の足音が遠ざかると、コスモはハァッと深い息を吐く。
 名前と同じ部屋であることは、本音を言えば嬉しい。バンザイをして走り回りたいほとだ。けれど、コスモは年頃の男であり、ましてや相手は大好きな名前だ。
 必ず訪れる「夜」のことを色々考えて緊張してしまっては、精神衛生上よろしくない。

(まあ俺…多分、何も出来ないけど…)

 自嘲気味にそう笑い、壁に背中を預けて上を向き、今度はゆっくりと息を吸った。「何も」の内容を想像すると、途端に恥ずかしくなったが、名前の足音が近づいてくると頭を振って考えることを止めた。

「聞いてみたんだけど、今日満室でもう一部屋は用意出来ないんだって。ここ、部屋数少ないから…。どうする? コスモくんが嫌ならやっぱりキャンセルして帰ってもいいけど」

 とは言いつつも、名前は残念そうな顔をしている。彼女にそんな顔をさせたくない、とコスモは「なら平気」と笑ってみせた。
 部屋は二人で過ごすに丁度いい広さだ。造りはやはり和風になっており、若い人を意識しているのか、奥の部屋に置かれているのは布団ではなく、味のあるローベッド。
 その奥に窓があり、コスモがそれを開けると、木々の間に細い川が見えた。そこから心地よいせせらぎが聞こえ、伸びをしながら深呼吸をすると、日頃のストレスや疲れを、そのまま川へ流せそうな気さえしてくる。

「運転ありがとう。おつかれさま、名前さん。疲れたんじゃない?」
「こちらこそ。運転するの好きだから大丈夫。途中、カーブ続きだったけど…酔ってない? 大丈夫?」
「全然! 三半規管もしっかり鍛えてるって」

 流石、と名前が拍手をして笑う。
 暖色系の照明が照らす客室に座り、名前が手早くお茶とお菓子の支度を済ませ、コスモに座るよう促した。
 改まって向かい合い座ることなど滅多にないため、コスモはやや緊張の面持ちで名前の向かいに座る。もっとも、名前は全く意識していなかったが。

「ふう…。それにしても、コスモくんが来てくれて本当に助かっちゃった。一人旅も好きだけど、温泉は友達とくるのが楽しいからね」

 友達か…と、至極当然の二人の関係にうなだれつつ、コスモは熱い湯呑を持ちながら名前に尋ねる。

「…一緒に来るはずだった友達、って…女の人?」

 それとなく探りを入れてみると、名前はキョトンとした顔で「え? そうだけど?」と答えた。そこにコスモの嫉妬があること、探りがあることには気づいていない様子だ。
 相手が男ではなかったことに、とりあえずの安堵を覚え、コスモは胸をなでおろした。

「ここのお宿ね、理乃さんに教えてもらったの! ほら、あの人お肌ツルツルのすべすべでしょ? 御雷くんとここによく来るんだって。美肌の秘訣教えてもらって、どうしても来たくって」
「へえ…あの人は金粉とかシャンパン入りのお風呂にでも入ってるのかと思ってたけど」
「あはは! 確かにそういうイメージだよね、わかるわかる。ゴージャスな感じだしね、理乃さん」

 あまりのイメージのしやすさに、二人は顔を見合わせくすっと笑った。
 倉吉理乃の話題から、トレーニングの話、そして拳願仕合の話、反省点、相手の攻略法の話を熱弁していると、いつの間にか夕食の時間が迫っていることに気がつく。先程入れた熱々のお茶も、すっかり冷めきっていた。

「あ~! 食事の前にちょっとお風呂入りたかったのに!」

 時計を見ながら肩を落とす名前に「後でゆっくり入りなよ」とコスモが言うと、名前は渋々立ち上がり食事の用意がされている「紫陽花の間」へ向かった。

 食事は非常に豪勢で、地元の野菜をふんだんに使った山の幸がメインだった。量は名前には丁度良かったが、食べ盛りのコスモにはやや物足りない。買ってきたおやつがあるから、夜に食べようと考えながら部屋に戻り、お腹をさする名前の幸せそうな顔を見た。
 満腹感による少しの息苦しさから解放された頃、名前は立ち上がって風呂の支度を始めた。

「コスモくんは、やっぱり後で入るの?」

 少しの沈黙。風呂に入ってゆっくり話せることもあるだろう。しかし女性に免疫がないことを自負しているコスモは、名前の裸はおろか、露出した肩を見るだけでも正気を保てる自信がない。

「そうだなー、名前さんに悪いし。俺は後で入るよ」
「…? じゃあ、先に入ってくるね」

 名前は不思議そうにコスモを見つめた後、すぐに笑顔を浮かべて機嫌よく部屋を出ていった。ドアが閉まり、外から施錠する音が部屋に響く。パタ、パタと小さくなっていくスリッパの音を聞きながら、コスモは一体なぜ名前は自分を誘ったのかと考えた。

(何もしないと安心しているから? 男として見られてないから?)

 やはり自分は弟的存在でしかないのだろうか。ぼう、っと宙を見ながら名前の姿を思い浮かべる。

(俺はこんなに名前さんのこと好きなのになー…)

 ガチャリ、と鍵の開く音で我に返った。どうやらかなりの間、名前のことをぼんやりと考えていたらしい。慌てて時計を見ると、名前が部屋を出てから一時間が経過していた。

「ふう~、いいお湯だったよ。コスモくんも入ってきたら? 多分、今なら他に人いないと思うから」

 化粧を落とした名前は、綺麗なお姉さんという印象はそのままに、可愛らしさを兼ね揃えている。元から肌は綺麗だが、温泉の効果だろうか、いつもにも増して艶があり、十分温もったお陰か白い肌はほんのりと赤く上気している。
 浴衣に着替えた名前の胸元は大きく膨らんでおり、ついそこに視線が向いてしまう。
 このままでは体が反応しかねない。コスモは「そうするよ」と立ち上がり、浴場へ逃げ込んだ。

 名前が言っていた通り、浴場には誰もいなかった。もしかすると、皆、満腹で休憩しているのかもしれない。ともあれ、裸の女性に遭遇するという、コスモにとっては最も避けたい事態からは逃れることが出来た。手早く髪や体を洗い部屋に戻ると、名前は缶ビール片手にスマートフォンを触っていた。

「あー! 名前さん、飲んでる。ずるいなー」
「コスモくんも一口いかが?」

 コスモは律儀なところがあるため、未成年のうちは酒を飲まないと決めている。それをわかっていて、敢えての冗談であった。

「メール?」
「うん、理乃さんとね。教えて貰った宿に来たよーって送ってたの」

 そう言って、名前はスマートフォンの画面を見せる。一瞬だったため、内容まではわからなかったが、理乃の「楽しんでらしてね」というハートマーク付きのメッセージは確認できた。
 名前はすぐにスマートフォンを机の上に置くと、ぐいっと酒を飲み、会話をはじめた。他愛もないことから、やはり流れは拳願仕合に向かう。
 酒のせいか、名前の瞳は潤みを帯びており、扇情的だ。コスモは、じっと名前の目を見つめる。饒舌に拳願仕合について話していた名前は、ビールの缶を置くと「ごめん」とつぶやいた。

「温泉に来た時くらい、拳願仕合のことは忘れたいよね。気が利かなくて、ごめんね」
「いや、そうじゃなくて…えーっと」

 酒のせいで暑いのか、動作が雑になるのか、名前の浴衣の胸元は先程より僅かに開いている。気付いているのか気付いているのかは、コスモにもわからない。

名前さんって…さ、俺のこと弟みたいに思ってる?」
「弟…? 思ってないけど、どうして?」
「…だって」

 コスモは覚悟を決め、一呼吸置いてからまくし立てた。

「同じ部屋でも混浴のお風呂でも平気そうだし、俺の前で浴衣はだけてるし…。異性として見られてないのかな、って。そりゃ、俺は女の人に免疫ないし、年下だし? けど、ちょっと自信なくしちゃうなーって、さ」
「弟としては見てないけど…でもコスモくんが暮石さんの所に来た時から知ってるからなぁ。確か、十四才だったんだっけ。その印象は強いかもしれない。けど、自信をなくすほどじゃ…─」

 名前の言葉を遮って、コスモは口を開いた。普段から快活で懐っこい彼の普段とは、少し様子が違うことに、流石の名前も気付いたようだ。

名前さん! 俺だってもう十九歳だよ、俺だって…男、だし」

 語気が強かったのは最初だけで、最後の方は消え入りそうな声だった。

「そ、そうだよね。ごめん…」

 名前は手を揃えて膝の上に置き、俯いてしまった。沈黙が二人を包む。空調の機械音だけが、僅かに部屋の中に響いていた。

「俺さ」
「…うん?」
名前さんのこと好きだよ、凄く。ねえ、名前さん。こっち見て」

 名前はおずおずと顔を上げてコスモを見た。まるで仕合中のような、コスモの真面目な眼差しを見て、名前は彼に出会った頃の「少年」ではなく、一人の立派な「男」を感じた。
 性格や容姿から可愛らしい印象があるコスモだが、体は相当に鍛えられている。性格と容姿のギャップや、コスモの成長を感じた名前は、思わずドキリと胸を鳴らす。

「……ッ」

 途端に恥ずかしくなり、名前は再び視線を落としてしまった。

「もー! 名前さん!」

 コスモは立ち上がり、ぐるりと机を迂回して名前の隣にすとんと座る。
 そっと名前の頬に手を添えて、半ば無理やり顔を上げて自身の方を向かせた。指に当たる柔らかな肌の触覚、髪の毛から香るシャンプーの香りで嗅覚を刺激され、クラリと目眩に似た感覚を覚えた。
 シャンプーは先程自分も同じものを使ったはずだが、そこに名前の香りがミックスされ、なんとも言えぬ香りを放っていた。

 ごくり。

 思わず唾を飲み込む。このまま押し倒す事は容易いが、そんなことはしたくない、出来ないというのがコスモの正直な気持ちだ。だが、気持ちを抑えるのはもう限界が近い。
 幸い体は反応していないが、どうにかこの気持ちを発散させたい、と、コスモは名前の柔らかな頬に唇を寄せた。

「…少しは男として意識してくれた?」

 耳元でささやくと、名前は身動ぎして少し距離を取り、手で顔を仰ぐ。

「もう! …十分すぎるくらいだよ。…はあ~、ドキドキした。頬にキスして貰ったのなんて何年ぶりだろう」
「それって俺を妬かせてる?」

 む、と唇を尖らせたコスモに、名前は少し余裕を取り戻した様子で答えた。

「やだ、そんなわけないでしょ? 子供の頃の話。恋人同士なら唇にするのが普通じゃない?」
「ふーん、子供の頃ね…」

 人にもよるだろうけど、と名前が笑う。コスモは複雑な感情を抱いたまま、腕組をした。
 名前の言い方では、幼い頃は頬にキス程度でも、恋人とは唇と唇でキスをしていたことになる。それは恋人同士であれば当然のことなのだが、やはりそこには嫉妬の感情が生まれてしまうのだ。
 恋人同士であれば当然それ以上の…と想像をしかけて、考える事を放棄した。

 そしてハッとした。コスモは、名前のことを知らなさすぎるのだ。
 普段どんな仕事をしているのか。趣味は何なのか。どういったものが好きで、嫌いなのか。どんな友人が居て、どんな恋人がいたのか。
 名前と食事に行ったことは、師匠である光世と共にではあるが、何度もある。しかし、その際の話題といえば、トレーニングのこと、仕合のこと、仕合相手のことなどばかりで、名前のプライベートに関わる事は何も話さなかったに等しい。
 謎も含めて名前の事は好きだが、ならば知りたいと思うのが好きな相手に対する自然な感情だろう。

「俺…、名前さんのこともっと知りたい。これから沢山名前さんのことを知って、もっと好きになって、そんで振り向いてもらいたい!」

 そのために、俺頑張るよ。
 コスモはそう言って、キラキラと瞳を輝かせ名前の手を握り自らの胸に引き寄せる。
 純粋で、真っすぐで、駆け引きのないその気持ちを、名前は素直に嬉しいと感じた。

 しかし…─

 手を握られた際に、浴衣の袖ごと引っ張られ、行き場をなくした胸元の布地が開けると、名前の胸がふるんと顕になり、コスモは一瞬の間を置いた後、大量の鼻血を出してパタリと倒れてしまった。

「あら…おーい、コスモくん?」
「……」

 コスモは鼻を押さえ、体を丸めて動かない。

「まだまだ、色んな意味で男になれる日は遠そうね…」

 名前は開けた浴衣を直しながらフフッと笑うと、残りのビールを呷った。

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