「愛を誓う言葉を君に」(暮石光世)

「…名前…?」
「えっ、くれい、し…さん?」
「やっぱり名前だ! 元気だった?」

 名前と光世は思わぬ場所で再会を果たした。
 場所は拳願絶命トーナメントが行われる願流島だ。トーナメント前夜である今、会場はすでに集まった拳願会員と闘技者で盛り上がっている。
 名前がここにいるということは、光世にとって全く予想だにしていないことだった。
 そもそも顔を見るのも数年ぶり。言葉を交わしたのも数年ぶり。
 かつては共に過ごし、時に笑い、時にふざけ合い、愛し合った仲。二人は恋人「だった」。

「えっと…はい、元気です」
「よかった。あのさ!」

 一歩、光世が名前に向かって足を踏み出すと、名前はじりっと後退する。また一歩近づいても、彼女は後ろに下がっていく。
 完璧なる「拒絶」の意思を示す名前に、光世はがっくりと項垂れた。

「そんなあからさまに避けなくても」
「い、いえ…避けてるわけじゃなくて。これからお仕事で…お客様を待たせてて」
「お客さん?」

 久しぶりに見る名前の愛らしい表情や、伸びた髪の毛に気を取られていたが、よく見てみると名前は白衣を着ている。
 光世にとっても馴染みのあるそれは、医者のものではなく、整体師や整骨師のものに近い。真っ白は白衣は、純粋で真っ直ぐな名前によく似合っていた。

「元気そうで何より。あれから何してた?」
「んっと…仕事、頑張ってたかな…」

 何の仕事なのかと問おうとしたが、名前はペコリと頭を下げるとその場を走り去ってしまった。
 小さくなる後ろ姿を見ながら、光世は淋しげに目を伏せる。

(やっぱり…、俺の側にはいてくれないんスね…)

「師匠~!」

 ふいに背後から明るい声で「師匠」と呼ばれ振り向く。そこには愛弟子のコスモが大きな骨付き肉を片手に手を振っていた。

「これ食べてさ、ギリギリまでトレーニングしたい…って、どうしたの? なんか元気ないね」

 コスモは肉にかぶりつきながら、しかし心配そうな表情をして光世の顔を覗き込む。

「昔の彼女がいたからびっくりしてただけー。コスモはそんなこと気にしなくていいの」
「昔の彼女…、ああ! 名前さん…、だっけ」
「そ」
「興味あるなー、師匠がそこまで好きになる女性のこと。トレーニングしながら聞かせてよ!」

 トーナメントに向けては、多くの闘技者がギリギリまで調整を行っている。コスモもその例には漏れない。名前の事を話すかどうかはともかく、光世はトレーニングのために場所を移し、コスモと共にスパーリングを行った。
 トーナメントに支障が出ない程度のスパーリングを行った後、冷えた水をコスモに渡すと、コスモは興味津々といった様子で再度同じ質問をした。

「ねえ、師匠。名前さんってどんな人?」
「ん~、そうだなぁ…」

 光世はかつて恋人だった名前の事を思い出す。
 彼女は甘えん坊で、ちょっと泣き虫な女性だった。人とコミュニケーションを取るのが苦手で、人間関係が上手く築けず職を転々とし、今回もダメだったと泣いては、光世に撫でられてその胸で眠っていた。
 翌朝になると、泣きはらした目を恥ずかしそうに擦りながら「もう一度頑張ってみる」と笑う。
 そんな健気で一生懸命なところが好きだった。

名前は女の子なんだしさ、俺と結婚しちゃえばいいのに』

 半分冗談、半分本気で、そんな言葉を名前に伝えたことがある。
 まだ互いに若かったが、真剣な交際をしているつもりだったし、将来の事も考えていた。いつかは言おうと思っていた言葉。それが、少し早まっただけだった。
 名前はうーんと数秒考えてから「一度くらいはちゃんと仕事を続けてから…」と、光世なりに勇気を出したプロポーズを保留にしたのだ。
 それから、なんとなく連絡をとる頻度が低くなり、やがてプツリと連絡が途絶えた。

「…ってことで、ああ、お別れなんだなと。さっきも逃げるように走っていったし」
「へえ。でも名前さんだって師匠と会えて嬉しかったんじゃない? 仕事があったから行っただけでしょ」
「ないない。絶対ない」
「なんでさ、師匠らしくないよ。さよならって言われたわけでもないんだし」

 よくよく過去を思い出す。確かに、さよならというメールが来たわけでも、電話が来たわけでもない。でもきっと名前の性格上言えなかったのだろう、と光世は考えていた。
 いっそ「さよなら」と言われていれば、きっぱりと諦めることも出来るのに…そこまで考えて、まだ彼女を作ったことのないコスモからのアドバイスが生意気な気がした。

「これは大人の話だから。はい、名前の話終了!」
「えー!」

 ぶーと頬を膨らませたコスモの頬を指でつついた後、トレーニング終了を告げて、気を紛らわせるために酒を買い込んで部屋に戻った。

・・
・・・

「はあ…」

 仕事を終えた名前は、Tシャツにショートパンツというラフな格好で海が見える木の下に座っていた。
 もう時間も遅く、明日は皆が待ちかねているトーナメント初日だ。人もいないだろうと踏んで来たが、周りにはカップルが多く、到着して数分が経っただけだがここに来たことを後悔していた。
 夜の海は怖いが、ここの海はライトアップされており十分に明るい。
 水着を来て浅瀬ではしゃぐカップルを見ながら、思わぬ再会を果たした光世のことを考える。

(もっと話しがしたかったのに…暮石さんに、今の私をしっかり見てもらいたかったのに…。私のバカ)

 思わぬ再会と考えるのは少々語弊がある。
 元々光世が何か裏と繋がりがあることに、名前は薄々勘付いていた。そのため、むしろ思わぬ再会だと感じたのは、裏世界とは無縁に生きてきた名前とトーナメントで再会した光世だろう。

 泣いてばかりで、職を転々としていたあの頃とは違う。
 今となってはしっかりとした社会人になった自分を、名前は光世に見てもらいたかったのだ。…たとえ、今はもう、光世の側にいるのが名前ではないとしても。
 そして連絡が途絶えたということは、関係も途絶えたということ。「今なら自信を持ってあなたの側にいられる」などと言えるはずもない。

・・
・・・

 トーナメント中日。
 施術が終わった名前は、再びラフなTシャツとショートパンツに着替え、海辺に来ていた。
 先日カップルだらけで辟易したというのに、ここへ来てしまうのは何故だろうか、と自問自答する。幸せなカップルを見ていると、それに光世と自分の姿を重ねる事ができるからだろうか。

「ふう…」

 冷たい風が心地良い。仕事内容には慣れてきたが、客との会話は未だに慣れない。
 名前は現在、整体師として働いている。整骨院で働く光世とは少し違うが、彼からの影響はかなり大きい。
 女性に向けた、顔の歪みを治す施術を得意としており、それに特化した店で働いている。女性の拳願会員も案外と多いため、彼女たちには非常にウケが良かった。仕事にはやりがいを感じているし、これからも頑張っていきたいと思っているため、勉強を欠かしたことはない。
 しかし、今ばかりは光世のことで頭がいっぱいだった。会いたい、声が聞きたい、と彼のことばかりを考えてしまう。

 いつでも強く、優しく、泣き虫な自分を抱きしめてくれた。きっと今は新しい彼女がいるのだろう。そう考えると胸が締め付けられた。

「…暮石さん…」
「はいはい、何スか?」

 予想もしていなかった光世の声と共に、頬にひやりと冷たいものが触れ、名前は小さく肩を震わせた。驚き振り向くと、そこには名前の目線まで腰を落としてニカッと笑う光世の姿があり、名前はぱくぱくと口を動かす。

「な、なん…」

 あまりの驚きに言葉が出てこなかった。

「俺のこと、呼んだでしょ? はい、これ」

 変わらぬ笑顔の光世が名前に差し出したのは、ちょっとマイナーなメーカーの紅茶だ。かなり甘みの強い紅茶で、飲む人を選ぶものだが名前の大好物だった。

「俺の記憶では…─、名前は紅茶ならこのメーカーが一番好き。でしょ? まさかここにあるとは思ってなかったスけど」

 おずおずと受け取った名前は、目で「飲んでもいいの?」と問いかける。光世が頷くと、キャップを開けて一口飲み込んだ。あの砂糖がたっぷり入った、ちょっと体に悪そうな甘みが口いっぱいに広がる。

「…覚えてて、くれたんだ」
「忘れるわけないし? 名前、これ。夜は冷えるから羽織って」

 光世はそう言うと、自らが羽織っていたパーカーをそっと名前の肩にかけた。ふわっと光世の香りとぬくもりを感じると、名前は懐かしさと心地よさに目を細める。
 隣でプシュッと音がして視線を向けると、光世が自分用に買ってきた飲み物を開けたようだ。握られたペットボトルのパッケージには「癖になる旨さ! カレースパークリング!」と書かれている。一体どんな味がするのだろうか、と名前は光世がそれに口をつける様子をじっと見た。

「…何これマッズ! 商品としてアリなのこれ?! カレーへの冒涜ッス…」

 名前には想像もつかないが、多分癖にはならない味なのだということは理解できた。

「ふふ…暮石さん、変わらないね」
「…名前は変わった。前より自信のある表情だし、元から可愛いのにもっと、うんと可愛くなった。今の彼氏にだけ見せる顔があるのかと思うと、妬けるなー」

 光世はカレースパークリング飲料を隣に起き、キャップを締めながら、独り言のように空に向かって呟く。

「…彼氏なんていないよ。ずっと勉強して、仕事に必死だったから。暮石さんこそ、変わらない。相変わらず優しくて、楽しくて…かっこいい」
「あれ? 俺ワンチャンあるッス?」

 光世がおどけて笑うと、名前は俯いてしまった。
 辺りを照らす照明があるとはいえ、俯かれてしまうと、その表情は窺えない。じっと次の言葉を待っていると、名前はぽつりぽつりと話しだした。

「私ね…暮石さんに甘えてた。真剣に考えてくれてたの、わかってたのに。でもね、恥ずかしかったの。格闘技も、仕事も、暮石さんは自分というものをしっかり持ってるのに、私は職を転々として…いつも泣いてばかり。だから、暮石さんと釣り合わないと思ったの。釣り合う女性になりたくて、必死に勉強して続けられる職にはつけたけど…独りになってた。待っててくれるなんて、なんで思ったんだろうね。私って馬鹿だなあ」

 名前は体育座りをして、足を引き寄せ腕を膝の上に置くと、その隙間に顔を埋めた。
 光世はそんな名前の頭の上に、ぽんと手を置く。

「俺は名前にフラれたと思って。すごーくショックだったな。ほんと、バカだよ、名前。…俺はずっと待ってたのに」
「……ごめんなさい…」
「今だってそうだ。ずっと、ずっっと待ってたんだ。だからこうやって再会出来て…やっぱり名前とは運命なんだってガラにもなく思ったりして。名前はあんまり運命とか信じないタイプだっけ? 案外その辺現実的だったような…まぁ俺もそんなにロマンチストではないんだけど。信じたくもなるじゃん? こんな所でまた会えるなんてさ」
「え…あ…ありがとう」

 名前は少し顔を上げて、横目で光世の顔を一瞬見ると、また俯いて消え入りそうな声で述べる。

「あれ? その反応、俺、今度こそ振られたス?」
「ち、違うよ! ただ私にその資格があるのかな、って…」

 慌てた様子で上げた名前の顔を、光世が優しく大きな手のひらで包み、額同士をコツンとぶつける。緑色の瞳が、名前の目に映った。それは、数年ぶりの光景だった。

「資格も何も。俺は昔も今も名前のことが大好きなんだけど? 考えない日はなかった。どうして俺の前からいなくなったんだろうとか、どうしたら側にいてくれたんだろうとか、毎日考えて。名前以外の彼女とか考えられないしって思ってたら、長年独り身でこの歳ッスよ? 寂しいのなんのって。…責任、とってくれるッス?」
「責任って、それはもしかして、えっと…」

 名前の頬が紅潮し、目が泳ぐ。光世はもう一度こつんと額をぶつけ、名前の視線を自分に向けた。

「そういうこと」

 じわり、と名前の目尻に涙が浮かぶ。

「あっ! 泣き虫なのは変わってないスねー、ほーら、よしよし」
「う…うう…暮石さぁぁん!」

 迷子だった子犬がやっと飼い主の元に戻ったように、名前は光世の体に抱きつき、泣きじゃくった。光世はそんな名前の体をしっかり受け止め「もう絶対に離さない」と強く抱きしめ返すと、永久の愛を誓う言葉を名前に捧げた。

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