少年以上男未満(今井コスモ)

 コスモは、格段寝付きが悪いわけではない。むしろどちらかというと、寝付きやすい体質だ。
 しかし今夜の彼は、寝返りを打っては、スマートフォンを見て、顔を赤くしては枕に顔を埋める。そしてまた寝返りをうち、スマートフォンを開き…と、全く同じ動作を何度も繰り返していた。
 理由は「明日の予定」だ。話は数日前に遡る。

 その日の拳願仕合も、たいして苦戦はしなかった。大きな怪我もない。
 ファストフード店でたらふくハンバーガーを食べた後、帰路につきながら、コスモは家に電話をして風呂の用意を頼んだ。帰宅するなり真っ先に風呂場へ向かい、服を脱ぎ始めた時である。
 ふいに、コスモのスマートフォンが鳴った。着信音は、最近コスモが気に入って聞いているアーティストのものだ。

(タイミング悪いなあ…)

 そう思いながらスマートフォンを手に取り、誰からの着信だろうとモニターを確認すると、コスモはピタリと動きを止める。モニターに表示されていたのは「苗字 名前」の文字。その名を見た途端、風呂のことなどどうでも良くなり、すぐに受話ボタンを押した。

「もしもし?」

 そっと携帯を耳に当て、やや緊張の面持ちで、しかしそれを悟られまいと冷静を装う。心臓はドキドキとうるさいくらいに高鳴り、名前の言葉を待った。

『あ! コスモくん? よかったー、繋がって。今大丈夫かな?』

 受話口から明るい名前の声が聞こえる。その心地よさに、コスモはうっとりとした。

「大丈夫! どうしたの? 名前さんから連絡来るなんて珍しいね」

 名前はコスモの師匠である暮石光世の知り合いで、たまにトレーニング中にひょっこりと顔を出しては、主に食事の差し入れを持ってきたり、他の闘技者の情報を入手してきたりと、コスモのサポートに尽力している女性であり、コスモの想い人であった。
 そんな彼女から電話がかかってきて、嬉しくないわけがない。ふと洗面台の鏡を見ると、自分自身でも笑ってしまうくらい嬉しそうにしている自分の姿があった。

『うん、実は…週末にね、友達と温泉旅行へ行く予定だったんだけど…その子が急に来られなくなっちゃって。キャンセル料金取られるのって、なんだか悔しいじゃない?』
「そうだよね、結構高いし」

 名前もコスモも、裏社会に生きる人間として、十分な稼ぎはある。それでもキャンセル料金が嫌なのは、値段の問題ではなく気持ちの問題だ。

『だから良かったらコスモくん、どうかなって思って。お誘いしてみました~』
「ええ、俺?!」

 受話口越しに名前が笑う。コスモは動揺する心を悟られまいと、努めて冷静に答えた。

「俺じゃなくても、名前さんなら他に誘える人いっぱいいるでしょ?」

 すぐにでも「行く!」と答えたかったが、それではガッツいているような気がして、コスモはグッと堪えて返答した。

『えー…暮石さんとか? 暮石さんとっていうのは、ちょっと想像出来ないなぁ。私、友達少なくて。だからコスモくんに電話したんだけど…無理そうなら、暮石さん誘ってみようかな』
「え! それはダメ!」

 急に語気を強めたコスモに驚いた様子で、名前は「え、あ、うん」と困惑気味に答える。
 名前と光世の付き合いが長いということは、普段の二人を見ていればなんとなく察することが出来る。しかし、そこに恋愛感情があるのかと言われれば、ないと予想できた。
 もし名前が温泉旅行に誘ったのが光世だったとして、そこから関係が発展するとも考えにくい。しかし万が一ということもある。

『一週間後って、仕合は入ってるの?』
「うん、入ってないよ。仕合は今日だった」
『じゃあ一緒に行こ! 私が車で迎えに行くね。宿までは、コスモくんの家からだと…多分二時間くらいかな』
「う…うん。じゃあ連れて行ってもらおう、かな?」
『決まりね!』

 名前は嬉しそうにそう言うと、当日迎えに行く時間を告げて、電話を切った。
 自宅に年上の女性が迎えに来る。そして一泊してくる。そんなことを実家暮らしのコスモが堂々と出来るはずもなく、その後の名前との相談で、待ち合わせ場所が近所のコンビニへ変更された。

 それが数日前の話。指折り数えて、ついに明日が温泉へ行く日である。
 名前と二人きりになったことがないわけではないし、宿では部屋も別であろうが、彼女と長く過ごせる夜があるということは、コスモにとって最大の喜びだ。
 明日の夜、少しでも長く名前と過ごせるように、早く眠らなくては…─
 コスモはお気に入りの音楽を小さな音で流すと、そっと目を瞑り、やがて夢の中へと落ちていった。

 男の荷物は女性ほど多くはない。起床後、簡単に荷物を纏めて家を出ると、約束のコンビニに向かう。車の中で飲むジュースや、夜のお菓子を買い込み、コンビニの外で名前を待った。
 やがて見覚えのある車が駐車場に停まる。それはCMでもよく見かける、女性向けの丸みのあるフォルムが可愛らしい車だ。豪華なスポーツカーではないのが、なんとも名前らしい。
 コスモが逸る気持ちを抑えて車に近づくと、窓が開き名前が笑顔を覗かせた。

「コスモくん! おはよう。待たせちゃったかな、ごめんね。乗って乗って」
「おはよう、名前さん。ううん、時間ぴったりだよ。それじゃ、お邪魔しまーす」

 車内には埃一つ落ちておらず、掃除が行き届いていた。強い芳香剤の匂いもしないが、車特有の臭いもしない。だが、名前特有のふんわりとした優しい香りが漂っていた。

「これ、よかったら。名前さんの好きなやつがあるといいんだけど」
「え? あ、ありがとう。助かる!」

 先程購入したジュースを差し出すと、名前は喜んで受け取り、片手で器用にキャップを開けると少量を口に含む。まだ若いけれど、きちんと気遣いが出来ることに名前は感心した様子を見せた。

「何か音楽流す?」

 名前がハンドルを握り、前を向いたままコスモに問いかける。コスモはあまり気にしていなかったが、そういえば車内にBGMが流れていない。車の持ち主であり運転手である。名前の音楽の好みを知るチャンスだったのにと考えながら「大丈夫」と答え、チラッと名前の横顔を見た。
 すっと通った鼻筋。長いまつ毛。形のよい唇に塗られた透明感のあるピンクのグロス。全てに、胸がドキドキと煩いくらいに高鳴った。
 日頃、トレーニング中に名前が顔を出しても、大抵はその場に光世が一緒だ。二人きりになることがあっても、何時間もということはまずない。しかし今夜は違う。たった今から、明日の朝まで、名前と二人きりだ。
 何をしようか? 一緒にテレビを見ようか、おやつも食べよう。ああ、UNOやトランプを持ってくればよかっただろうか。
 そんなピュアなことを考えていたコスモに、名前は前を向いたまま「あ、そうそう」と口を開く。

「今日行く温泉、混浴だけど大丈夫だよね」
「……?!」

 コスモの顔色が変わった。どんどん顔が熱を帯び、肌が赤くなっていく。口が金魚のようにパクパクとしか動かない。

「えっ、えっ…それは、俺は…!」

 わかりやすく動揺するコスモに、名前は思わず吹き出した。

「あは! 相変わらず、コスモくんは恥ずかしがり屋だなぁ。お風呂の色が乳白色だから、入っちゃえば見えないし平気平気」
「そ、そういう問題じゃなくて! 混浴なんて聞いてないし、その…」
「じゃあ、入る時間をずらせばいいね。二十四時間入れるところだから」
「うん…そう、する」

 未だドキドキと煩い心臓を押さえ、コスモは自分を落ち着かせようをジュースを飲んだ。
 車はやがて山道に入り、道にはカーブが続き、風景は緑が濃く深くなっていく。
 名前の運転はとても上手く、狭い道の対向も難なくこなしていった。

 やがて到着した宿は、やや古い印象を受けるが味がある造りだ。豪華な宿というより「隠れ宿」といった言葉がぴったりで、山奥でひっそりと、けれどしっかりと客人を迎えている。

「よいしょ、っと」
「あ、俺持つよ」
「そう? ありがと」

 少量ではあったが名前の荷物を受け取ると、車を降りて宿の入り口に向かう。多くはないが、何台か車が停まっているのを確認できた。
 ドアを開けると、仲居が深々と頭を下げて、名前とコスモを出迎える。

「こんにちは。予約していた苗字です」
苗字さまですね。お待ちしておりました」

 受付で手続きを済ませ、仲居に案内を任せ部屋まで向かい、通された部屋は一〇八号室。

「それでは失礼いたします」

 仲居が再び深々と頭を下げ、部屋を立ち去る時に、コスモは気づいてしまった。
 そう、案内をされ鍵を渡されたのは一〇八号室の分ただ一つだけなのだ。ポカーンとしていると、荷物を受け取ろうとした名前が問いかけた。

「どうしたの? コスモくん」
「…名前さん。部屋って…ここ、だよね」
「うん、そうだよ」
「ここに二人で泊まる…ってこと?」
「うん、そう」
「!?!?」

 コスモがズザァ!と音を立てて、壁に体を寄せる。手と頭を横に振り、その顔は「混浴」と知らされた時よりも遥かに赤い。

「だめだめだめ、それはダメ! 名前さんと同じ部屋はダメ!」
「あれ、言ってなかったっけ…。うーん、空室があればもう一つ部屋取るけど…聞いてこようか?」

 今度は手と頭を縦に振る。名前は「待っててね」と言い残して部屋を出ていった。パタリとドアが閉まり、名前の足音が遠ざかると、コスモはハァッと深い息を吐く。
 名前と同じ部屋であることは、本音を言えば嬉しい。バンザイをして走り回りたいほとだ。けれど、コスモは年頃の男であり、ましてや相手は大好きな名前だ。
 必ず訪れる「夜」のことを色々考えて緊張してしまっては、精神衛生上よろしくない。

(まあ俺…多分、何も出来ないけど…)

 自嘲気味にそう笑い、壁に背中を預けて上を向き、今度はゆっくりと息を吸った。「何も」の内容を想像すると、途端に恥ずかしくなったが、名前の足音が近づいてくると頭を振って考えることを止めた。

「聞いてみたんだけど、今日満室でもう一部屋は用意出来ないんだって。ここ、部屋数少ないから…。どうする? コスモくんが嫌ならやっぱりキャンセルして帰ってもいいけど」

 とは言いつつも、名前は残念そうな顔をしている。彼女にそんな顔をさせたくない、とコスモは「なら平気」と笑ってみせた。
 部屋は二人で過ごすに丁度いい広さだ。造りはやはり和風になっており、若い人を意識しているのか、奥の部屋に置かれているのは布団ではなく、味のあるローベッド。
 その奥に窓があり、コスモがそれを開けると、木々の間に細い川が見えた。そこから心地よいせせらぎが聞こえ、伸びをしながら深呼吸をすると、日頃のストレスや疲れを、そのまま川へ流せそうな気さえしてくる。

「運転ありがとう。おつかれさま、名前さん。疲れたんじゃない?」
「こちらこそ。運転するの好きだから大丈夫。途中、カーブ続きだったけど…酔ってない? 大丈夫?」
「全然! 三半規管もしっかり鍛えてるって」

 流石、と名前が拍手をして笑う。
 暖色系の照明が照らす客室に座り、名前が手早くお茶とお菓子の支度を済ませ、コスモに座るよう促した。
 改まって向かい合い座ることなど滅多にないため、コスモはやや緊張の面持ちで名前の向かいに座る。もっとも、名前は全く意識していなかったが。

「ふう…。それにしても、コスモくんが来てくれて本当に助かっちゃった。一人旅も好きだけど、温泉は友達とくるのが楽しいからね」

 友達か…と、至極当然の二人の関係にうなだれつつ、コスモは熱い湯呑を持ちながら名前に尋ねる。

「…一緒に来るはずだった友達、って…女の人?」

 それとなく探りを入れてみると、名前はキョトンとした顔で「え? そうだけど?」と答えた。そこにコスモの嫉妬があること、探りがあることには気づいていない様子だ。
 相手が男ではなかったことに、とりあえずの安堵を覚え、コスモは胸をなでおろした。

「ここのお宿ね、理乃さんに教えてもらったの! ほら、あの人お肌ツルツルのすべすべでしょ? 御雷くんとここによく来るんだって。美肌の秘訣教えてもらって、どうしても来たくって」
「へえ…あの人は金粉とかシャンパン入りのお風呂にでも入ってるのかと思ってたけど」
「あはは! 確かにそういうイメージだよね、わかるわかる。ゴージャスな感じだしね、理乃さん」

 あまりのイメージのしやすさに、二人は顔を見合わせくすっと笑った。
 倉吉理乃の話題から、トレーニングの話、そして拳願仕合の話、反省点、相手の攻略法の話を熱弁していると、いつの間にか夕食の時間が迫っていることに気がつく。先程入れた熱々のお茶も、すっかり冷めきっていた。

「あ~! 食事の前にちょっとお風呂入りたかったのに!」

 時計を見ながら肩を落とす名前に「後でゆっくり入りなよ」とコスモが言うと、名前は渋々立ち上がり食事の用意がされている「紫陽花の間」へ向かった。

 食事は非常に豪勢で、地元の野菜をふんだんに使った山の幸がメインだった。量は名前には丁度良かったが、食べ盛りのコスモにはやや物足りない。買ってきたおやつがあるから、夜に食べようと考えながら部屋に戻り、お腹をさする名前の幸せそうな顔を見た。
 満腹感による少しの息苦しさから解放された頃、名前は立ち上がって風呂の支度を始めた。

「コスモくんは、やっぱり後で入るの?」

 少しの沈黙。風呂に入ってゆっくり話せることもあるだろう。しかし女性に免疫がないことを自負しているコスモは、名前の裸はおろか、露出した肩を見るだけでも正気を保てる自信がない。

「そうだなー、名前さんに悪いし。俺は後で入るよ」
「…? じゃあ、先に入ってくるね」

 名前は不思議そうにコスモを見つめた後、すぐに笑顔を浮かべて機嫌よく部屋を出ていった。ドアが閉まり、外から施錠する音が部屋に響く。パタ、パタと小さくなっていくスリッパの音を聞きながら、コスモは一体なぜ名前は自分を誘ったのかと考えた。

(何もしないと安心しているから? 男として見られてないから?)

 やはり自分は弟的存在でしかないのだろうか。ぼう、っと宙を見ながら名前の姿を思い浮かべる。

(俺はこんなに名前さんのこと好きなのになー…)

 ガチャリ、と鍵の開く音で我に返った。どうやらかなりの間、名前のことをぼんやりと考えていたらしい。慌てて時計を見ると、名前が部屋を出てから一時間が経過していた。

「ふう~、いいお湯だったよ。コスモくんも入ってきたら? 多分、今なら他に人いないと思うから」

 化粧を落とした名前は、綺麗なお姉さんという印象はそのままに、可愛らしさを兼ね揃えている。元から肌は綺麗だが、温泉の効果だろうか、いつもにも増して艶があり、十分温もったお陰か白い肌はほんのりと赤く上気している。
 浴衣に着替えた名前の胸元は大きく膨らんでおり、ついそこに視線が向いてしまう。
 このままでは体が反応しかねない。コスモは「そうするよ」と立ち上がり、浴場へ逃げ込んだ。

 名前が言っていた通り、浴場には誰もいなかった。もしかすると、皆、満腹で休憩しているのかもしれない。ともあれ、裸の女性に遭遇するという、コスモにとっては最も避けたい事態からは逃れることが出来た。手早く髪や体を洗い部屋に戻ると、名前は缶ビール片手にスマートフォンを触っていた。

「あー! 名前さん、飲んでる。ずるいなー」
「コスモくんも一口いかが?」

 コスモは律儀なところがあるため、未成年のうちは酒を飲まないと決めている。それをわかっていて、敢えての冗談であった。

「メール?」
「うん、理乃さんとね。教えて貰った宿に来たよーって送ってたの」

 そう言って、名前はスマートフォンの画面を見せる。一瞬だったため、内容まではわからなかったが、理乃の「楽しんでらしてね」というハートマーク付きのメッセージは確認できた。
 名前はすぐにスマートフォンを机の上に置くと、ぐいっと酒を飲み、会話をはじめた。他愛もないことから、やはり流れは拳願仕合に向かう。
 酒のせいか、名前の瞳は潤みを帯びており、扇情的だ。コスモは、じっと名前の目を見つめる。饒舌に拳願仕合について話していた名前は、ビールの缶を置くと「ごめん」とつぶやいた。

「温泉に来た時くらい、拳願仕合のことは忘れたいよね。気が利かなくて、ごめんね」
「いや、そうじゃなくて…えーっと」

 酒のせいで暑いのか、動作が雑になるのか、名前の浴衣の胸元は先程より僅かに開いている。気付いているのか気付いているのかは、コスモにもわからない。

名前さんって…さ、俺のこと弟みたいに思ってる?」
「弟…? 思ってないけど、どうして?」
「…だって」

 コスモは覚悟を決め、一呼吸置いてからまくし立てた。

「同じ部屋でも混浴のお風呂でも平気そうだし、俺の前で浴衣はだけてるし…。異性として見られてないのかな、って。そりゃ、俺は女の人に免疫ないし、年下だし? けど、ちょっと自信なくしちゃうなーって、さ」
「弟としては見てないけど…でもコスモくんが暮石さんの所に来た時から知ってるからなぁ。確か、十四才だったんだっけ。その印象は強いかもしれない。けど、自信をなくすほどじゃ…─」

 名前の言葉を遮って、コスモは口を開いた。普段から快活で懐っこい彼の普段とは、少し様子が違うことに、流石の名前も気付いたようだ。

名前さん! 俺だってもう十九歳だよ、俺だって…男、だし」

 語気が強かったのは最初だけで、最後の方は消え入りそうな声だった。

「そ、そうだよね。ごめん…」

 名前は手を揃えて膝の上に置き、俯いてしまった。沈黙が二人を包む。空調の機械音だけが、僅かに部屋の中に響いていた。

「俺さ」
「…うん?」
名前さんのこと好きだよ、凄く。ねえ、名前さん。こっち見て」

 名前はおずおずと顔を上げてコスモを見た。まるで仕合中のような、コスモの真面目な眼差しを見て、名前は彼に出会った頃の「少年」ではなく、一人の立派な「男」を感じた。
 性格や容姿から可愛らしい印象があるコスモだが、体は相当に鍛えられている。性格と容姿のギャップや、コスモの成長を感じた名前は、思わずドキリと胸を鳴らす。

「……ッ」

 途端に恥ずかしくなり、名前は再び視線を落としてしまった。

「もー! 名前さん!」

 コスモは立ち上がり、ぐるりと机を迂回して名前の隣にすとんと座る。
 そっと名前の頬に手を添えて、半ば無理やり顔を上げて自身の方を向かせた。指に当たる柔らかな肌の触覚、髪の毛から香るシャンプーの香りで嗅覚を刺激され、クラリと目眩に似た感覚を覚えた。
 シャンプーは先程自分も同じものを使ったはずだが、そこに名前の香りがミックスされ、なんとも言えぬ香りを放っていた。

 ごくり。

 思わず唾を飲み込む。このまま押し倒す事は容易いが、そんなことはしたくない、出来ないというのがコスモの正直な気持ちだ。だが、気持ちを抑えるのはもう限界が近い。
 幸い体は反応していないが、どうにかこの気持ちを発散させたい、と、コスモは名前の柔らかな頬に唇を寄せた。

「…少しは男として意識してくれた?」

 耳元でささやくと、名前は身動ぎして少し距離を取り、手で顔を仰ぐ。

「もう! …十分すぎるくらいだよ。…はあ~、ドキドキした。頬にキスして貰ったのなんて何年ぶりだろう」
「それって俺を妬かせてる?」

 む、と唇を尖らせたコスモに、名前は少し余裕を取り戻した様子で答えた。

「やだ、そんなわけないでしょ? 子供の頃の話。恋人同士なら唇にするのが普通じゃない?」
「ふーん、子供の頃ね…」

 人にもよるだろうけど、と名前が笑う。コスモは複雑な感情を抱いたまま、腕組をした。
 名前の言い方では、幼い頃は頬にキス程度でも、恋人とは唇と唇でキスをしていたことになる。それは恋人同士であれば当然のことなのだが、やはりそこには嫉妬の感情が生まれてしまうのだ。
 恋人同士であれば当然それ以上の…と想像をしかけて、考える事を放棄した。

 そしてハッとした。コスモは、名前のことを知らなさすぎるのだ。
 普段どんな仕事をしているのか。趣味は何なのか。どういったものが好きで、嫌いなのか。どんな友人が居て、どんな恋人がいたのか。
 名前と食事に行ったことは、師匠である光世と共にではあるが、何度もある。しかし、その際の話題といえば、トレーニングのこと、仕合のこと、仕合相手のことなどばかりで、名前のプライベートに関わる事は何も話さなかったに等しい。
 謎も含めて名前の事は好きだが、ならば知りたいと思うのが好きな相手に対する自然な感情だろう。

「俺…、名前さんのこともっと知りたい。これから沢山名前さんのことを知って、もっと好きになって、そんで振り向いてもらいたい!」

 そのために、俺頑張るよ。
 コスモはそう言って、キラキラと瞳を輝かせ名前の手を握り自らの胸に引き寄せる。
 純粋で、真っすぐで、駆け引きのないその気持ちを、名前は素直に嬉しいと感じた。

 しかし…─

 手を握られた際に、浴衣の袖ごと引っ張られ、行き場をなくした胸元の布地が開けると、名前の胸がふるんと顕になり、コスモは一瞬の間を置いた後、大量の鼻血を出してパタリと倒れてしまった。

「あら…おーい、コスモくん?」
「……」

 コスモは鼻を押さえ、体を丸めて動かない。

「まだまだ、色んな意味で男になれる日は遠そうね…」

 名前は開けた浴衣を直しながらフフッと笑うと、残りのビールを呷った。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!