そんな君だから(理人)

 

 拳願仕合を翌日に控えた夜。理人は豪勢な料理が並ぶ会場で、食事と酒を楽しみながらナンパに勤しんでいた。
 そんな彼の名前を呼ぶ声が聞こえた…気がした。

「ん?」
「どうかした?」
「いやいや、なんでも! …で、今夜どう?」
「うーん…どうしようかなぁ」

 ナンパ相手の女性は多少酔っているようで、このまま押せばチャンスがある、と理人は踏んでいた。もうひと押しだ。

「理人ーーッ! 無視しないでよ!」

 ドンッと背中に衝撃を受け、理人はグラスの中のシャンパンを今しがたナンパしていた女性にかけてしまった。
 声は今度こそハッキリと大きく聞こえた。聞き間違う訳もない。

名前…サン、なんでこんな所に?」
「理人いるところに私あり、私あるところに理人あり、でしょ?」

 シャンパンをかけられた女性はわなわなと震え、声を荒げる。

「女連れなら声かけないでよ! なんなの?!」

 女としてのプライド、そしてドレスを汚された怒りから、女性は手に持っていたワインを理人に浴びせると、踵を返して姿を消した。

「あーっ?! くっそォ…もう少しで落とせそうだったのにー!」
「え? 何、ナンパしてたの?」
「い、いやー…」
「私がいるのに?」
「……いやー」
「でも許しちゃう。会いたかったよ、理人」

 そう言って名前は細い腕を理人の腕に絡めた。
 むにゅりと胸があたり、理人は鼻の下を伸ばしながら名前に問いかける。

「なんで名前がここに?」
「お父さんの親戚の友達のお兄ちゃんが拳願会員で、この拳願仕合のこと聞いたんだあ」
「それはもう他人じゃねえか…」
「理人って凄く強いし、絶対参加してると思って来てみたら…って感じかな? ねえ、どうしてこの事黙ってたの?」
「それは…まぁ、ナンパが」
「理人さん、王馬さんを…って、あら?」

 そこへ、皿に料理を盛り付けた金髪眼鏡の美女が姿を見せた。王馬が、という言葉から、皿に盛り付けられた料理は彼のためのものだろう。
 野菜、肉、デザートとバランス良く盛られた皿の上の料理を見て、理人はなんとも羨ましいと王馬を恨んだ。

「理人さん、そちらの方は…」
「ち、違う! 誤解だぜ、楓ちゃん!」

 突然現れた楓の姿に、さして驚きもせず名前はニコリと微笑む。楓も思わずドキリとしてしまうほど、名前は同性から見ても可愛らしい女性だ。

「理人の知り合い? はじめまして、私、名前っていいます。見ての通り、理人の彼女です」
「秋山楓です。理人さんにこんな可愛らしい彼女さんがいらしたなんて…驚いた、といっては失礼ですが」
「だから誤解だってェ! 楓ちゃん!」

 楓は理人の声など聞こえていないかのように、辺りをキョロキョロと見渡す。

「王馬さんは…いないみたいですね。見かけませんでしたか?」
「見かけてマセン…」
「王馬? 楓さんの彼氏さんですか?」

 そう問われた楓は戸惑いつつ、頬を赤らめて「違います!」と否定し、関係性を説明した。
 聞き終えた名前は「なるほど」と頷き、楓の説明に似た風貌の人物がいなかったかと記憶を辿る。

「うーん…私も見てないかなぁ。えっと、王馬さんの名字は?」
「十鬼蛇です。十鬼蛇王馬」
「わかりました」
「…?」

 名前は静かに息を吸う。
 理人が危険を察知し、楓に耳を塞ぐよう伝えようとしたが、間に合わない。

「十鬼蛇王馬さぁぁぁん!!! こっちに来てくださーーーい!!」

 すぐ傍にいた理人と楓のみならず、周囲の人々が突然の大声に痛いほどの鼓膜の震えを感じた。
 こんな大声は聞いたことがない。初めて聞くレベルの大声に、楓は呆然と口を開く。
 だが驚くべきは周囲の順応性だろう。流石は変わり者の多い拳願会員といったところだろうか、驚きはしたようだが、既に会話なり食事なりを再開している。

 やがて、人波をかき分けて一人の男が姿を見せた。
 楓が「王馬さん」と呼んだことで、名前は彼が例の王馬という男であることを知る。

「おい、アキヤマカエデ。なんの騒ぎだ? あんな大声聞いたことねぇよ」
「ち、違います! 私の声じゃないですよ。声を出したのはこちらの女性で…探してたのは確かに私なんですけど」
「…? 誰だ?」
「お名前は名前さん。理人さんの彼女さんだそうですよ」
「…カノジョ?」

 王馬はしばらく名前を見つめた後、へえと小さく呟いた。
 さして名前に強い関心があるわけではないが、理人の彼女といえば少し興味はある。

「理人、良かったじゃねえか」
「何がだよ」
「カノジョがいて」
「いや…彼女というか、なんというか」
「…違うのか? 名前

 そもそも彼氏彼女という概念も王馬にはあまりなかったが、理人の反応が気になって問いてみた。しかし、いまいちハッキリしない。
 名前は理人の腕から離れると、落ち込んだ様子で理人に尋ねる。

「彼女…だよね? 告白してくれた…よね、理人」
「彼女っていうか、そのー」
「幸せにするって言ってくれたのに…」
「それは、その」
「…うう、うわああん!!」

 一向に自分を「彼女」と認めない理人に、名前は顔を手で覆いながら走り出してしまった。その瞳には光るものがあったようにも見える。
 驚いて「待てよ」と手を掴みたかったが、思っていたよりも名前の走る速度は素早かった。

「…」
「……」
「……?(なんだこの空気?)」
「今のは理人さんが悪いですよ」
「え、俺?!」

 楓が眼鏡越しに冷ややかな目で理人を見た。
 王馬は状況が飲み込めていないらしく、いつの間にか楓から受け取った更に乗っていた大きなステーキを頬張っている。

「告白されたんですよね? 幸せにするって、名前さんに仰ったんですよね?」
「まあ…嘘ではねえけど」
「理人さんが軟派な性格なのは知っています。でもそのように伝えたのなら、こういう時にはすぐに彼女だと説明して大切にするのがいい男というものですよ。そして、それが本当の理人さん。ですよね?」
「楓ちゃん…」

 理人はしばらく楓の顔を見つめた後、力強く頷いて名前の後を追った。
 この会場は広く、更には酔ってしまうほどに人が多い。真っ直ぐに進むことは困難だ。となると、駆けて行った方向ですら定かではない。
 しかしここで追いかけなければ男がすたるというものだ。
 ましてやそれが、名前であるのならば。

「…はあ、全く世話の焼ける。仕方のない人ですね、理人さんは。それでもどこか憎めないんですけど。ね、王馬さん」
「カエデ、これ旨いな」
「…聞いてます?」

 名前はどの方向へ駆け、どこへ向かったのか。
 先程、彼女が触れていた理人の腕には、もうその温もりも残っていない。

 名前と理人の出会いは拳願仕合でもない、全く「拳願会」とは関係のない、ただの町中だった。
 ちょっとツンとした印象があるものの、愛らしい動作で道をゆく名前に、理人が一目惚れをしたのだ。
 LINEの交換はあっさりと承諾され、すぐに理人の猛アタックが始まった。一目惚れなど理人にとっては日常茶飯事で特別なことではなかったが、すぐに名前が他の女性とは違うと気付く。
 トントン拍子に交際が始まり、明らかになったことは、名前が案外(と言えば怒るだろうが)純粋だということだった。
 ツンとした見た目とは違い、甘えん坊で寂しがり、交友関係に利害を求めず、友達思いで彼氏思い。更に言えばなかなかの変わり者で、先程の大きな声などもエピソードの一つとして記憶している。
 名前とデート中に名前がはぐれて迷子になり、人通りの多い所で渾名とはいえ大声で名前を呼ばれたことがあった。恥ずかしかったという記憶、そして理人とはぐれて怖かった寂しかったとわんわん泣く名前を愛おしく思ったことを思い出す。

 その時に思い、誓い、彼女に伝えたのだ。
名前はぜってぇ俺が幸せにしてやるからな!」…と。

 今だって寂しくてどこかで泣いているかもしれない。もしかしたら男に声をかけられているかもしれない。自分のナンパは棚に上げることになるが、そう思うと走る足と握った拳に力が入った。

 一方、名前は。

 とにかく走って辿り着いたのは、公園のような広場だった。
 美しい花々やベンチが、拳願仕合にふさわしく絢爛に照らされている。
 そしてこれまた豪奢なベンチに腰を下ろすと、深い溜め息をこぼした。

「はあ…やっぱりダメなのかな」

 思い出すのは過去に交際した男たちのこと。
 自身が変わり者だという自覚はある。そして自分に惚れる男が「ツンとした名前」を求めていることも。しかし名前は好きになってしまうと所謂「デレデレ状態」になってしまい、周りが見えなくなることもしばしばある。というか、それが名前にとっての常だろう。
 「ツンとした名前」を求めていた男はギャップに驚き、一瞬は喜ぶものの、そのデレっぷりに辟易として離れてしまうのだ。

「ただ好きなだけなのに…顔に甘えん坊ですとでも書いておこうかな」

 きっと理人も今までの男と同じく辟易したに違いない。求めていたのはツンとした名前であって、デレデレとした自分ではないのだろう。

「別にナンパなのはいいのに…私のこともちゃんと見てくれたら…」

 膝の上に置いた手にぎゅっと力を入れ、見つめた。

(理人の手、大きくてあったかくて気持ちいいんだぁ…)
名前
(そうそう、こんな風に優しく呼んでくれるんだよね。大好きな声だな…)
名前!)
(はあ匂い嗅ぎたいなぁ…一見汗の匂いがしそうだけど案外いい匂いなんだよね、特にうなじ…ふふふふ)
「…名前?」
(腕に抱きつきたいな…そのまま抱っこしてもらって、ぎゅってしてもらって…へへへ)
「大丈夫か?!」
「え?!!!」

 急にぐっと両腕を捕まれ、名前は驚き声と顔を上げた。

「あ、り、理人?!」
「理人? じゃねぇよ、大丈夫か? …なんか、その…すげえ思いつめた表情してたからよ…」
「……(後半はただ妄想してただけなんて言えない)」
「原因は俺にあるってわかってんだけどな…名前、その…悪かった!!」

 理人は砂利の上に膝をつき勢いよく土下座した。突然の土下座に、名前は驚き狼狽える。

「え?! や、やめてよ…お別れなんて嫌だよ、理人、うう…ううう、うわああん!!」
「惚れたのも告白したのも俺だし、幸せにするって約束も…って、ん? 別れる、って何だ?」
「だって理人、デレデレした私が嫌で別れるんでしょ? 皆そうなんだ、私の見た目がツンツンしてるからそういう人だと思って…私は、私は…」

 名前は周囲の僅かな人目も憚らず、わんわんと泣き出した。

「いや…? 別れるなんて微塵も思ってねぇけど…」
「うわああん!! …え?」

名前は目を丸くして理人を見つめた。驚いているのか、信じていないのか、今はまだわからない。

「ほんとに? ほんとにほんと? 別れない?」
「当たり前だろ! さっきはちょっと…その、照れくさくて彼女だって言えなかったし、俺ってこんな性格だから今後もナンパはするかもしれねぇけど…。一番大事に思ってるのも、好きなのも名前なんだぜ? 幸せにする女も名前だけだって誓って言える」
「…嘘だよ。そう言って皆離れていったんだよ」
「俺は離れねぇよ!」

 言うと同時に、理人は力強く名前を抱きしめた。夜風で冷えた名前の体がじんわりと暖まっていく。ギュッと抱きしめる力は痛い程であったが、名前にはそれが嬉しかった。

「世界一幸せにする、約束だ」
「…うう…、うん! 私も理人を世界一幸せにするからね。絶対に」
「おう!」
「子供もいっぱい欲しいなぁ、なんて」
「…そ、それは」

 ゴクリと理人が唾を飲み込む。
 実は理人と名前はまだ「したこと」がなかった。厳密に言えばあるのだ。ただ意外(と言えばやはり名前は怒るだろう)にも名前はまだ処女だった。
 そしてそれには理由がある。名前は痛みに弱く、どうしても挿入に至らないのだ。破瓜の痛みに耐えられないのである。しかも、あの大声で泣く。
 自宅は勿論ホテルでも、事件を疑われた程だった。

「じゃ、じゃあ…今夜あたり…?」
「…うん! 痛いのは嫌だけど、頑張る」
「っしゃあ!!!」

 思わずガッツポーズを取った理人は、すぐにハッとして言い繕う。決して体や、することだけが目的なのではなく、名前と一緒になれることが嬉しいのだと。

「わかってるってば」

 名前はそう言って屈託なく笑った。

 翌日、名前は楓の隣で理人の仕合を見守り声援を上げていた。
 相変わらずの大声に、鼓膜が痛いなと思いつつも、懸命に応援する名前を微笑ましく思い、楓は飲み物を口に含む。
 ふいに、名前の理人を応援する声が止まり、彼女らしからぬ小声で楓に問いかける。

「楓さん、あの、一つ質問が」
「え、あ、今ですか?」

 仕合のことだろうか、と楓は笑顔で応じるが、その直後に放たれた名前の言葉に凍りついた。

「その…男の人のアレが大きい場合って、どうやってすればそんなに痛くないですか?」
「…?! ややややや山下社長…!!」

 咄嗟に隣の一夫に助けを求め、一夫はこのタイミングでの唐突な質問に飲み物を吹き出し、楓を三度見ほどしてから真顔で「そうですね…」と答えだす。
 しかし楓は聞いていない。そんなに経験豊富に見えるのだろうかという僅かなショックと動揺を、理人への声援に変えて名前に負けず劣らずの大声を張り上げ、ビールの売り子に「一杯下さい!!」とやけ酒に走るのであった。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!