ボディソープ(ガオラン)

【タイの闘神! ガオラン・ウォンサワット選手、熱愛か?】

 現在、タイはこの話題で持ちきりだ。ボクシング界で最強を誇る、タイ国民であれば知らぬ者はいない、ガオラン・ウォンサワット。彼はボクシングの印象が強く、恋愛をするイメージを抱く国民は少ない。恋愛をするより、ただ強さを極めるというストイックなイメージが強いのである。
 だからこそ、彼の熱愛を報道したこのニュースはタイ国民の関心を強く惹きつけた。
 お相手はタイの有名な美人女優だ。やはり彼も男だったのだなと、多くの国民は納得し、熱心な女性ファンの中にはショックを隠せないものまでいた。
 だが…心中穏やかではない人物が二人、ここにいる。

 ひとりはニュースと話題の当人である、ガオラン・ウォンサワット。
 そしてもうひとりは、ガオランの”本当”の恋人だ。

 このニュースはタイ中で取り上げられ、放送されている。雑誌や新聞も同様だ。
 朝一番のニュースを見たガオランは、吹き出したコーヒーを拭きながら、慌てて恋人である名前にメッセージを送っていた。

『ニュースが言っていることは事実ではない』

 取り急ぎ送った一言だ。この時間なら、もう名前も起きている頃だと思った。
 しかし、いつもなら比較的すぐ既読になるはずのメッセージには、既読がつかない。
 寝ているのだろか。それとももう仕事へ行ったのだろうか。

『誤解しないで欲しい。詳細は夜に話す』

 ガオラン自身ももう仕事へ向かう時間だ。
 いつもならば、仕事前に一言二言は交わしているのに、今日に限って既読がつかない。出勤のギリギリまでスマートフォンを睨んでいたが、結局既読にもならず返事も来ないままだった。

「ガオランよ」

 象に乗りながら散歩をする、ガオランの主であるラルマー十三世が口を開く。少し上がった口の端。何を話すのかはすぐに察しが付いた。

「噂になっている女優はなかなか美しい女よの」
「いや、あれは…」
「しかしガオラン。お前は交際している日本人の女がいたような気がするのだが?」
「はあ…それなのですが」
「良い良い。複数の美しい女と付き合うのもまた、男の甲斐性」

 ガオランは、はあ、と曖昧な返事をしてこの話題をやり過ごした。

 護衛の仕事を終え帰路につくと、すぐにスマートフォンを開く。今朝、名前に送ったメッセージはまだ既読がついていない。

(相当怒っているのか、仕事が忙しいか…出来れば後者であってほしいものだ…)

 どちらの可能性も大いに有り得る。
 出来れば後者でと祈りながら、全力疾走で名前の家に向かった。
 雲行きが怪しい。この後の展開が空のようにならぬよう願った。

 到着すると、集合玄関でインターホンを連打した。名前からの応答はない。スマートフォンのチェックもしていないのか、やはり既読もついていない。
 外から確認すると部屋の電気はついているため、帰宅はしているのだろう。
 ポケットに手を入れ、合鍵を取り出して中に入った。
 念の為、玄関のインターフォンも鳴らすが、やはり名前は出てこない。
 合鍵を鍵穴に差し込み、施錠を解除すると中へ入った。サァァと水の音が聞こえ、どうやら名前がシャワーを浴びていることがわかり、何かあったわけではなかったのだと安堵しリビングへ向かう。

「!!」

 机の上には、普段名前が買わない類の新聞紙が置かれていた。
 見出しには堂々と「ガオラン選手熱愛か?!」の文字が書かれている。
 ガオランの表情は変わらなかったが、リビングの壁にかけられた鏡に映った自分の顔は、顔面蒼白であった。

 新聞紙が置かれたテーブルの前にあるソファに、ちんまりと座る。

「あら、ガオラン。来てたの」

 シンプルな無地のパジャマに身を包んだ名前が、髪を拭きながら姿を見せた。

名前…」

 なんと切り出せばいいのか、必死に考えたが、彼女の名前を呟くだけで精一杯だ。
 名前は普段どおりの優しい笑顔を浮かべて「何?」と答え、冷蔵庫からビールを取り出す。
 ガオランの隣に座り、ビールを机の上に置くその音が、やけに大きく聞こえた。

「……」
「………」

 沈黙が二人を包む。
 名前は新聞紙のことや、噂のことには一切触れず、時計をちらりと確認するとテレビを付けた。丁度、ニュースの時間だ。
 真っ先に聞こえたガオランの熱愛報道に、ガオランは肝を冷やした。
 名前はぐびぐびとビールを飲み、ダンッと大きな音を立てて空になった缶を机の上に置く。
 怒っている、とすぐに察した。

(まずいな…)

 熱愛報道が終わり、次のニュースに変わると、名前はすぐにテレビを消し立ち上がった。
 普段なら名前はガオランがどんなに遅く部屋へ来ても、手料理を振る舞う。簡単なものだったり、手のこんだものであったり、その時によって内容は違うが、名前の生まれである日本の料理、そしてガオランの生まれであり好物でもあるタイ料理を振る舞うことが多々ある。

「疲れてるから、寝るね」

 名前は立ち上がり、にっこりと笑う。

名前、少し話が」
「どうぞごゆっくり」

 しかし名前はガオランの言葉を遮って、目も合わせずに寝室へ向かってしまった。
 すぐに追いかけようと思ったが、何せ仕事が終わってすぐに駆けつけたのだ。シャワーも浴びていない。例え自分の家だとしても抵抗がある。それが名前の家なら、シャワーも浴びずにベッドに入れるはずがない。

「先にシャワーを借りる」

 名前からの返事はないが、ガオランは洗面所へ向かいシャワーを浴びた。
 どんなに仕事が多忙を極めようとも、常にきっちりと清掃された風呂場は気持ちが良い。
 名前が愛用している、ボディーソープは濃厚な深みのある甘い花の匂いのものだ。それとは別に、名前がガオランのために用意した、エキゾチックな匂いの清涼感のあるボディーソープがある。
 ガオランはそのボディーソープを気に入っていた。あまり他にはない好みの匂いであったし、何より名前が選んでくれたものだからだ。
 シャワーから上がると、これもまたきっちりと丁寧に畳まれた下着とガウンに足と袖を通す。
 気分は随分とスッキリしたが、気持ちは沈んだままだ。上がる頃には部屋の電気も消されていた。完璧に無視を決め込むらしい。

(いっそ罵倒されたほうが弁明もしやすいのだが…)

 そっと名前が眠るベッドに入り、背を向けて横になる名前を後ろから抱きしめた。
 名前は寝付くと、少々変わった寝息を立てる。それまたとても愛らしく、そして寝ている時にでも、ガオランが触れたり、抱きしめたりすると、嬉しそうに声を漏らすのだが、今は寝息も聞こえていない。つまりは起きているのだろう。

名前?」
「……」
「そのままでいい。話を聞いてくれ。まず誓って言うが、俺はあの女性とは何もしていない」
「‥…」
「確かに個室で食事はしたが、それだけだ。当然体に触れてもいないし、触れられてもいない。当然、それ以上のこともしていない」
「……ガオラン選手は食事の後、店を出ると、女優の部屋に姿を消しました」

 先程聞いたニュースの内容を、名前が繰り返す。

「彼女は恋愛のことで思い悩み、やけ酒をしてかなり酔っていた。足元も覚束ない状態で…。だから家まで送ったが、玄関で嘔吐してしまい、掃除を手伝った。本当にそれだけだ」

 抱きしめる腕に力を入れた。
 名前は再びだんまりを決め込み、それがガオランの不安を煽る。寝息はやはり聞こえていないため、寝てしまったわけではなさそうだ。

「…ぐす」

 僅かに鼻をすする音が聞こえた。
 ガオランは驚き、ガバリと起き上がる。しかし、名前は泣いている姿を見られたくないのか、布団の中へ身を隠してしまう。少しだけ覗く頭に軽く触れた後、布団の上からぎゅっと抱きしめる。
 名前の事をとても愛おしく思った。と同時に、こんな時でも男性として反応してしまう自分を恨む。

名前を不安にさせ、悲しませるような行動をとってしまったことは本当に反省している。今後同じことを繰り返さないと誓う。すまなかった。…だから、顔を見せてくれないか」
「…いや」

 ガオランは布団を捲ろうとするが、名前は頑として布団から顔を出そうとしない。
 名前は布団の下で、ぽろぽろと泣いていた。先程までの強い怒りは消えたものの、代わりに悔し涙が溢れてきたのだ。怒りは笑顔で誤魔化すことが出来たが、泣き顔を誤魔化すことは出来ない。
 しばし攻防が続いたが、結局布団を剥ぎ取るという単純な腕力に、名前がガオランに敵うはずもなく、布団は剥がされ泣き顔を露呈してしまった。

「……」
名前…やっと顔を見ることが出来た」

 名前は咄嗟に手で顔を隠そうとしたが、ガオランはそれを許さなかった。
 再びの謝罪と共に、キスの雨。唇に触れたしょっぱい涙の味に、ガオランの胸が痛んだ。

「どうせ、私は…あの女優さんみたいにセクシーじゃないし、胸も小さいですよ」
「自分を卑下するのは良くない。それに、俺は今のままの名前を心底…」

 ガオランは躊躇した。今、愛の言葉を伝えたとしても、その言葉はとても軽いものに捉えられてしまうのではないだろうか。

(今の名前に届くかどうか…)

「他の女性に言ったかもしれないような言葉はいらない!」

 力を緩めた隙に、名前は再び布団の中に逃げ込んでしまった。

「はあ…本当に彼女とは何もない。神に誓って言える」

 どうしたものか、と頭を抱えながら、ガオランは名前の上に覆いかぶさった。
 最初こそ、その下でじっとしていた名前だが、あまりの重さと息苦しさにすぐ顔を出す。
 女性である名前が、九十一キログラムのガオランを支える事は困難だった。

「ぷっは! 息苦しいし重いし悔しいしーー!!」

 出てきた名前の顔を、すかさずガオランの大きな手を平が包む。

「離してよ、知らない!」

 原因はガオランにあるとしても、名前が嫉妬心を見せることは滅多にないことで、そんな所も愛おしく、嬉しいと感じた。

「拗ねてむくれた顔も、涙で濡れた目も、噛んで赤い唇も…全てが愛おしいと言ったら?」
「……」
「こんなことは惚れてもいない女性には言わないが? …いや、惚れていたとしてもそうそう言わんな…」
「それは…知ってる」

 名前が今日、初めてガオランとまっすぐ視線を交える。
 ガオランは名前の目尻に残った涙を粒をそっと舐め取った。
 擽ったそうに身を捩る名前の肩を抱き寄せてみたが、彼女は抵抗しなかった。

「弁明の余地をもらっても?」

 ガオランは静かに名前の首筋に顔を埋める。風呂場に置いてある、あの濃厚な花の匂いがした。
 名前も、ガオランから自分が用意したボディソープの匂いがしたことに安堵し、胸元に顔を埋める。

「特別に許してあげる」

 やっと少し笑った名前に、ガオランも微笑みを返す。そこにはいつもの自身に満ち溢れた彼の表情があった。

「明日も仕事だけど…今夜は寝かさないでね?」
「…それは男が言う台詞だ。まあ元よりそのつもりだが」

 ガオランは布団を背負って、まずは名前の額に口づけを落とした。

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