| コスモは、格段寝付きが悪いわけではない。むしろどちらかというと、寝付きやすい体質だ。 しかし今夜の彼は、寝返りを打っては、スマートフォンを見て、顔を赤くしては枕に顔を埋める。そしてまた寝返りをうち、スマートフォンを開き…と、全く同じ動作を何度も繰り返していた。 理由は「明日の予定」だ。話は数日前に遡る。 その日の拳願仕合も、たいして苦戦はしなかった。大きな怪我もない。 (タイミング悪いなあ…) そう思いながらスマートフォンを手に取り、誰からの着信だろうとモニターを確認すると、コスモはピタリと動きを止める。モニターに表示されていたのは「苗字 名前」の文字。その名を見た途端、風呂のことなどどうでも良くなり、すぐに受話ボタンを押した。 「もしもし?」 そっと携帯を耳に当て、やや緊張の面持ちで、しかしそれを悟られまいと冷静を装う。心臓はドキドキとうるさいくらいに高鳴り、名前の言葉を待った。 『あ! コスモくん? よかったー、繋がって。今大丈夫かな?』 受話口から明るい名前の声が聞こえる。その心地よさに、コスモはうっとりとした。 「大丈夫! どうしたの? 名前さんから連絡来るなんて珍しいね」 名前はコスモの師匠である暮石光世の知り合いで、たまにトレーニング中にひょっこりと顔を出しては、主に食事の差し入れを持ってきたり、他の闘技者の情報を入手してきたりと、コスモのサポートに尽力している女性であり、コスモの想い人であった。 『うん、実は…週末にね、友達と温泉旅行へ行く予定だったんだけど…その子が急に来られなくなっちゃって。キャンセル料金取られるのって、なんだか悔しいじゃない?』 名前もコスモも、裏社会に生きる人間として、十分な稼ぎはある。それでもキャンセル料金が嫌なのは、値段の問題ではなく気持ちの問題だ。 『だから良かったらコスモくん、どうかなって思って。お誘いしてみました~』 受話口越しに名前が笑う。コスモは動揺する心を悟られまいと、努めて冷静に答えた。 「俺じゃなくても、名前さんなら他に誘える人いっぱいいるでしょ?」 すぐにでも「行く!」と答えたかったが、それではガッツいているような気がして、コスモはグッと堪えて返答した。 『えー…暮石さんとか? 暮石さんとっていうのは、ちょっと想像出来ないなぁ。私、友達少なくて。だからコスモくんに電話したんだけど…無理そうなら、暮石さん誘ってみようかな』 急に語気を強めたコスモに驚いた様子で、名前は「え、あ、うん」と困惑気味に答える。 『一週間後って、仕合は入ってるの?』 名前は嬉しそうにそう言うと、当日迎えに行く時間を告げて、電話を切った。 それが数日前の話。指折り数えて、ついに明日が温泉へ行く日である。 男の荷物は女性ほど多くはない。起床後、簡単に荷物を纏めて家を出ると、約束のコンビニに向かう。車の中で飲むジュースや、夜のお菓子を買い込み、コンビニの外で名前を待った。 「コスモくん! おはよう。待たせちゃったかな、ごめんね。乗って乗って」 車内には埃一つ落ちておらず、掃除が行き届いていた。強い芳香剤の匂いもしないが、車特有の臭いもしない。だが、名前特有のふんわりとした優しい香りが漂っていた。 「これ、よかったら。名前さんの好きなやつがあるといいんだけど」 先程購入したジュースを差し出すと、名前は喜んで受け取り、片手で器用にキャップを開けると少量を口に含む。まだ若いけれど、きちんと気遣いが出来ることに名前は感心した様子を見せた。 「何か音楽流す?」 名前がハンドルを握り、前を向いたままコスモに問いかける。コスモはあまり気にしていなかったが、そういえば車内にBGMが流れていない。車の持ち主であり運転手である。名前の音楽の好みを知るチャンスだったのにと考えながら「大丈夫」と答え、チラッと名前の横顔を見た。 「今日行く温泉、混浴だけど大丈夫だよね」 コスモの顔色が変わった。どんどん顔が熱を帯び、肌が赤くなっていく。口が金魚のようにパクパクとしか動かない。 「えっ、えっ…それは、俺は…!」 わかりやすく動揺するコスモに、名前は思わず吹き出した。 「あは! 相変わらず、コスモくんは恥ずかしがり屋だなぁ。お風呂の色が乳白色だから、入っちゃえば見えないし平気平気」 未だドキドキと煩い心臓を押さえ、コスモは自分を落ち着かせようをジュースを飲んだ。 やがて到着した宿は、やや古い印象を受けるが味がある造りだ。豪華な宿というより「隠れ宿」といった言葉がぴったりで、山奥でひっそりと、けれどしっかりと客人を迎えている。 「よいしょ、っと」 少量ではあったが名前の荷物を受け取ると、車を降りて宿の入り口に向かう。多くはないが、何台か車が停まっているのを確認できた。 「こんにちは。予約していた苗字です」 受付で手続きを済ませ、仲居に案内を任せ部屋まで向かい、通された部屋は一〇八号室。 「それでは失礼いたします」 仲居が再び深々と頭を下げ、部屋を立ち去る時に、コスモは気づいてしまった。 「どうしたの? コスモくん」 コスモがズザァ!と音を立てて、壁に体を寄せる。手と頭を横に振り、その顔は「混浴」と知らされた時よりも遥かに赤い。 「だめだめだめ、それはダメ! 名前さんと同じ部屋はダメ!」 今度は手と頭を縦に振る。名前は「待っててね」と言い残して部屋を出ていった。パタリとドアが閉まり、名前の足音が遠ざかると、コスモはハァッと深い息を吐く。 (まあ俺…多分、何も出来ないけど…) 自嘲気味にそう笑い、壁に背中を預けて上を向き、今度はゆっくりと息を吸った。「何も」の内容を想像すると、途端に恥ずかしくなったが、名前の足音が近づいてくると頭を振って考えることを止めた。 「聞いてみたんだけど、今日満室でもう一部屋は用意出来ないんだって。ここ、部屋数少ないから…。どうする? コスモくんが嫌ならやっぱりキャンセルして帰ってもいいけど」 とは言いつつも、名前は残念そうな顔をしている。彼女にそんな顔をさせたくない、とコスモは「なら平気」と笑ってみせた。 「運転ありがとう。おつかれさま、名前さん。疲れたんじゃない?」 流石、と名前が拍手をして笑う。 「ふう…。それにしても、コスモくんが来てくれて本当に助かっちゃった。一人旅も好きだけど、温泉は友達とくるのが楽しいからね」 友達か…と、至極当然の二人の関係にうなだれつつ、コスモは熱い湯呑を持ちながら名前に尋ねる。 「…一緒に来るはずだった友達、って…女の人?」 それとなく探りを入れてみると、名前はキョトンとした顔で「え? そうだけど?」と答えた。そこにコスモの嫉妬があること、探りがあることには気づいていない様子だ。 「ここのお宿ね、理乃さんに教えてもらったの! ほら、あの人お肌ツルツルのすべすべでしょ? 御雷くんとここによく来るんだって。美肌の秘訣教えてもらって、どうしても来たくって」 あまりのイメージのしやすさに、二人は顔を見合わせくすっと笑った。 「あ~! 食事の前にちょっとお風呂入りたかったのに!」 時計を見ながら肩を落とす名前に「後でゆっくり入りなよ」とコスモが言うと、名前は渋々立ち上がり食事の用意がされている「紫陽花の間」へ向かった。 食事は非常に豪勢で、地元の野菜をふんだんに使った山の幸がメインだった。量は名前には丁度良かったが、食べ盛りのコスモにはやや物足りない。買ってきたおやつがあるから、夜に食べようと考えながら部屋に戻り、お腹をさする名前の幸せそうな顔を見た。 「コスモくんは、やっぱり後で入るの?」 少しの沈黙。風呂に入ってゆっくり話せることもあるだろう。しかし女性に免疫がないことを自負しているコスモは、名前の裸はおろか、露出した肩を見るだけでも正気を保てる自信がない。 「そうだなー、名前さんに悪いし。俺は後で入るよ」 名前は不思議そうにコスモを見つめた後、すぐに笑顔を浮かべて機嫌よく部屋を出ていった。ドアが閉まり、外から施錠する音が部屋に響く。パタ、パタと小さくなっていくスリッパの音を聞きながら、コスモは一体なぜ名前は自分を誘ったのかと考えた。 (何もしないと安心しているから? 男として見られてないから?) やはり自分は弟的存在でしかないのだろうか。ぼう、っと宙を見ながら名前の姿を思い浮かべる。 (俺はこんなに名前さんのこと好きなのになー…) ガチャリ、と鍵の開く音で我に返った。どうやらかなりの間、名前のことをぼんやりと考えていたらしい。慌てて時計を見ると、名前が部屋を出てから一時間が経過していた。 「ふう~、いいお湯だったよ。コスモくんも入ってきたら? 多分、今なら他に人いないと思うから」 化粧を落とした名前は、綺麗なお姉さんという印象はそのままに、可愛らしさを兼ね揃えている。元から肌は綺麗だが、温泉の効果だろうか、いつもにも増して艶があり、十分温もったお陰か白い肌はほんのりと赤く上気している。 名前が言っていた通り、浴場には誰もいなかった。もしかすると、皆、満腹で休憩しているのかもしれない。ともあれ、裸の女性に遭遇するという、コスモにとっては最も避けたい事態からは逃れることが出来た。手早く髪や体を洗い部屋に戻ると、名前は缶ビール片手にスマートフォンを触っていた。 「あー! 名前さん、飲んでる。ずるいなー」 コスモは律儀なところがあるため、未成年のうちは酒を飲まないと決めている。それをわかっていて、敢えての冗談であった。 「メール?」 そう言って、名前はスマートフォンの画面を見せる。一瞬だったため、内容まではわからなかったが、理乃の「楽しんでらしてね」というハートマーク付きのメッセージは確認できた。 「温泉に来た時くらい、拳願仕合のことは忘れたいよね。気が利かなくて、ごめんね」 酒のせいで暑いのか、動作が雑になるのか、名前の浴衣の胸元は先程より僅かに開いている。気付いているのか気付いているのかは、コスモにもわからない。 「名前さんって…さ、俺のこと弟みたいに思ってる?」 コスモは覚悟を決め、一呼吸置いてからまくし立てた。 「同じ部屋でも混浴のお風呂でも平気そうだし、俺の前で浴衣はだけてるし…。異性として見られてないのかな、って。そりゃ、俺は女の人に免疫ないし、年下だし? けど、ちょっと自信なくしちゃうなーって、さ」 名前の言葉を遮って、コスモは口を開いた。普段から快活で懐っこい彼の普段とは、少し様子が違うことに、流石の名前も気付いたようだ。 「名前さん! 俺だってもう十九歳だよ、俺だって…男、だし」 語気が強かったのは最初だけで、最後の方は消え入りそうな声だった。 「そ、そうだよね。ごめん…」 名前は手を揃えて膝の上に置き、俯いてしまった。沈黙が二人を包む。空調の機械音だけが、僅かに部屋の中に響いていた。 「俺さ」 名前はおずおずと顔を上げてコスモを見た。まるで仕合中のような、コスモの真面目な眼差しを見て、名前は彼に出会った頃の「少年」ではなく、一人の立派な「男」を感じた。 「……ッ」 途端に恥ずかしくなり、名前は再び視線を落としてしまった。 「もー! 名前さん!」 コスモは立ち上がり、ぐるりと机を迂回して名前の隣にすとんと座る。 ごくり。 思わず唾を飲み込む。このまま押し倒す事は容易いが、そんなことはしたくない、出来ないというのがコスモの正直な気持ちだ。だが、気持ちを抑えるのはもう限界が近い。 「…少しは男として意識してくれた?」 耳元でささやくと、名前は身動ぎして少し距離を取り、手で顔を仰ぐ。 「もう! …十分すぎるくらいだよ。…はあ~、ドキドキした。頬にキスして貰ったのなんて何年ぶりだろう」 む、と唇を尖らせたコスモに、名前は少し余裕を取り戻した様子で答えた。 「やだ、そんなわけないでしょ? 子供の頃の話。恋人同士なら唇にするのが普通じゃない?」 人にもよるだろうけど、と名前が笑う。コスモは複雑な感情を抱いたまま、腕組をした。 そしてハッとした。コスモは、名前のことを知らなさすぎるのだ。 「俺…、名前さんのこともっと知りたい。これから沢山名前さんのことを知って、もっと好きになって、そんで振り向いてもらいたい!」 そのために、俺頑張るよ。 しかし…─ 手を握られた際に、浴衣の袖ごと引っ張られ、行き場をなくした胸元の布地が開けると、名前の胸がふるんと顕になり、コスモは一瞬の間を置いた後、大量の鼻血を出してパタリと倒れてしまった。 「あら…おーい、コスモくん?」 コスモは鼻を押さえ、体を丸めて動かない。 「まだまだ、色んな意味で男になれる日は遠そうね…」 名前は開けた浴衣を直しながらフフッと笑うと、残りのビールを呷った。 |
18
2021.5
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます