| 約一ヶ月に及んだ情報収集の任を経て、私は帰国の途についていた。 ああ…早く殿に会いたい。私は逸る気持ちを抑えられない反面、とても憂鬱だ。原因は…、ああ、考えただけで頭が痛い。 「中華・名さま、顔色が優れませんが具合でも悪いのでは…」 私が殿と趙を出る際に私兵として連れてきた、中華・名隊の副将・里丁(りてい)が心配そうに私の顔を覗き込む。「大丈夫」と簡素な返事をして、ようやく前方に見えてきた魏の城壁に安堵した。 「以上が此度の遠征で得た情報の全てでございます」 報告が無事に終わり、私はふうっと息を吐く。やっと緊張の糸がほぐれた感じだ。あとは殿に会うだけ、と歩き出す。が、そこに”奴”はいた。 「わはー! 中華・名ー!」 物陰から飛び出し、私に抱きつこうとした”奴”こと輪虎をさっと交わす。輪虎が体勢を立て直す前に、さっさと行こうと思ったけど、輪虎は私の左腕にガシッと抱きついてきた。 「ほら、中華・名。いつもの」 話の途中で歩き出した私を、駆け足で追いかけてくる輪虎。 「やめて、疲れが増す」 この一月のことを思い出してみるけれど、輪虎のことを考えたのはほんの僅かな時間だけ。それも輪虎のことだけを考えただけではなく、言っては悪いが殿のことを思い出すついでに考えただけだ。 「…全くなかった、ってわけじゃないけど」 先に述べた「頭が痛い」原因は彼にある。 「僕も殿のところへ行こうかな」 とりあえず輪虎を左腕から引き離し、殿の屋敷に向かって歩き出す。輪虎は機嫌が良いようで、鼻歌まで歌っている。通りすがりの乙女が頬を染めながら輪虎の名前を呼ぶと、輪虎はひらひらと手を振って「はいはい」と返事をした。 「あは、誰がどう見ても僕たちはお似合いの恋人同士だ」 私にべったりの輪虎に辟易することもあるが、好都合な点もある。私は特に優れた美人ではないけれど、地位のせいか言い寄ってくる男性は少なくない。でも輪虎が隣にいれば、睨みを効かせてくれるおかげで、その数はぐっと減るのだ。それでもしつこい奴はいるものの、輪虎が隣にいる時といない時では雲泥の差…などと考えている間に、殿の屋敷に到着した。 「これは輪虎さま、中華・名さま! 廉頗さまにお会いに来られたので?」 見知った門番と挨拶を交わし、中に入る。私は何度も廊下を曲がって、広間を目指した。 「殿! 中華・名、只今戻りました」 寝転がり、書物を見ていた殿は起き上がると、私と輪虎を見てニィと笑った。 「おお、中華・名か! 怪我は…当然ないだろうのォ」 殿は輪虎を見て苦笑いを浮かべる。しかし輪虎は意に介さず、にへらーと笑った。 「やだなー、当たり前じゃないですか。僕の妻に何かあったらどうするんです?」 殿は輪虎だけでなく、衛兵まで廊下に追いだし、私と二人きりの空間を作った。二人きりになると、殿の迫力に圧倒される。やはりこの御方は凄い。 「中華・名。輪虎のどこが気に食わん」 私だって輪虎のことが嫌いというわけではないのだ。ただ…ただ、好意を抱いているのは恐れ多くも殿で、玄峰さまのことは尊敬しており、介子坊は飲み仲間、姜燕…そして輪虎は馴染みの戦友といった思いしか抱いていない。 「それに、中華・名と輪虎の間に赤子が産まれれば、そやつは必ず将来大物の将軍になるぞい」 殿がヌハハと笑い承諾すると、私は足音を忍ばせて裏門から屋敷を出た。 「おかえりなさいませ、中華・名さま」 私の屋敷で世話係を頼んである、癒呂(ゆろ)バアが私に頭を下げる。元は殿の身の回りの世話をしていた癒呂バア。殿に拾われた際、女には女の世話人が必要だろうと、殿が充てがってくれた。 「ただいま、癒呂バア。お風呂に入りたいの、支度してくれる?」 久しぶりに見る、癒呂バアの優しい笑顔に心が温かくなる。 「やあ、中華・名」 何故か殿の屋敷へ置き去りにしたはずの輪虎が、私の屋敷で風呂に入っていた。それも、かなり気持ちよさそうに寛いで。咄嗟に手拭で体を隠したけど、もしかしたら見られたかもしれない…。 「ど…っ、どうして輪虎がいるのよ!! ここは私の屋敷よ?!」 ざばっ、と輪虎が湯船から立ち上がる。私は目を丸く見開いて硬直した。 「き、きゃああああ!」 素っ裸の輪虎を見て、恥ずかしさの余り私は手で目を覆う。そのせいで体を隠していた手拭がはらりと落ち、あろうことか今度こそ輪虎に裸体を晒すことになってしまった。 「わはー、思わぬご褒美だ」 脱衣所の向こうで、慌てた癒呂バアの声が聞こえた。戸を開けられそうになったため、私は慌てて戸を抑える。 「何でもないの、ただ躓いただけ!」 輪虎に裸体を見られた恥ずかしさより、まるで輪虎と一緒に風呂へ入ろうとしているかのように見える、この状況を見られることのほうが厄介だ。癒呂バアは輪虎に好意的だから、余計に。 「輪虎、やっぱりお風呂に浸かって。あっち向いててちょうだい」 輪虎は再び湯船に浸かり、私は彼の体を見ないように、目を逸らしながら湯船のお湯を桶に掬って体を流す。そして足からゆっくり湯船に入った。輪虎に背を向けて座る。 「アハ、中華・名の体綺麗だったなあ」 輪虎の勝ち誇った顔が容易に想像できた。確かに、私の詰めが甘かったことが原因だ。 「そうね」 トン、と背中に手の感触。紛れもなく輪虎のものだ。そしてその手が触れている場所は、私が戦へ出るようになってすぐの頃、飛んできた矢が刺さった傷跡のある所。 「…何?」 輪虎が傷跡を撫でる。もう痛みがないとはいえ、そこを撫でられると少し不快だ。文句を言おうとした瞬間、輪虎は私の背中に胸板をぴったりとくっつけ抱きついてきた。腕は私の肩を抱き、左手で貫通した傷跡を覆っている。 「やっぱり、いくら相手が殿でも妬いてしまうな。あは、僕って相当嫉妬深い。ねえ、中華・名。この傷を負った時のこと、覚えているかい」 その時のことを思い出したのか、輪虎の声に憎しみと怒りが宿った。それから若干の殺気。輪虎の殺気はいつも鋭くて、未だに慣れない。ところで、私は先程から一つ気になっていることがある。 「輪虎」 輪虎の手を振り払い、手拭で体を隠しながら脱衣所へ駆け込んだ。後ろから「僕も上がるー」って声が聞こえたから、私は大急ぎで服を着て廊下へ出た。癒呂バアの作る食事の匂いが、廊下にまで届いていて私のお腹がぐうと鳴る。遠征中は質素な食事しか出来ないため、久しぶりのきちんとした食事ができそうだ。 「あら、中華・名さま…もうお風呂はよろしいので?」 お風呂からは上がっただろうけど、その後のことまでは知らない。屋敷内をぶらついているのか、 「…まだいたのね」 輪虎は湯上がりのせいか、ほんのり頬が紅かった。肌が白いから、なんだか妙に色っぽい。しかし私は、次に輪虎が発した言葉に耳を疑った。 「家も隣同士になったことだし、いつでも来れるからね。中華・名、それじゃあ」 輪虎がにこりと笑う。そういえばさっき、隣に大きな屋敷が見えたけれど、まさか輪虎が引っ越してきたとは…。 |
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2021.5
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